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1964年の“MGC”はだしの激走も五輪代表選考会の真実

9/14(土) 7:31配信

西日本スポーツ

 来年の東京五輪とほぼ同じコースで行われるマラソン代表選考レース「グランドチャンピオンシップ」(MGC)が15日に行われる。1964年東京五輪も4月に当時の五輪コースで最終選考会「日本選手権マラソン」が行われ、男子3枠の代表を巡って熱戦を展開した。優勝して五輪初出場を決めた君原健二氏(78)=北九州市=と、5位で惜しくも代表を逃した重松森雄氏(79)=福岡市=が当時の激闘を振り返り、MGCに臨む男女計43選手に「平常心で力を発揮してほしい」と激励した。

【写真】東京五輪マラソン代表の貴重な3ショット

 1964年東京五輪のマラソンは男子のみ実施。日本代表は前年秋の朝日国際と64年2月の別府大分毎日も選考大会とされていたが、“最終決戦”として注目されたのは同年4月12日の日本選手権だった。結果的にも75人が出場した同選手権で3位までに入った君原、円谷幸吉、寺沢徹の3人に代表が決まった。

 優勝候補の筆頭だった君原氏は年明けに尾てい骨を痛めて「何度か練習もできない時期があった。周囲の期待に応えられるのか不安だった」と振り返る。心がけたのが「平均ペース(同じラップ)で走るのが合理的」という信念。一時は先頭から10秒近く離れたが5キロ16分前後のラップを最後まで守り、ライバルたちが疲れた34キロすぎから独走して優勝した。

 一方、福岡大3年の重松氏も年明けに腰を痛めた影響で練習不足のまま同選手権に臨んだ。「イチかバチかで勝負するしかなく、最初から先頭集団につけた」と積極的に集団をけん引。ローマ五輪マラソン代表で九電工所属の渡辺和己らと3位を争った。レース途中ではだしになって猛追してきた福岡・久留米商高出身の中尾隆行に一度は抜かれたが「4位なら補欠で選ばれる可能性もある」と我慢のレースを展開。中尾を抜き返したが、3位寺沢に49秒差、4位には4秒届かなかった。

 同選手権翌日付の西日本新聞朝刊で「いずれの選手にも負けられぬという意欲があふれ、抜きつ抜かれつ。こんなレースはさいきんにはなかった」(原文まま)とたたえられた激闘。「故障上がりで自重し、ペースを守ったのが良かった」という君原氏は、東京五輪から3大会連続で五輪に出場して68年メキシコで銀メダルを取った。一発勝負でペースメーカーがいないMGCも「重圧があると走れない。誰かに勝ちたいではなく、持っている力を発揮することに集中した方が良い」と説く。

 敗れた重松氏は「悔しかった一方で、次のメキシコ五輪は何としても出るという思いを強くした」と奮起し、65年にボストン・マラソンを制覇、ウインザーマラソンで当時世界最高の2時間12分0秒で優勝した。「勝つには冷静な心が必要。どれだけ準備し、自分に自信をつけたかが冷静さにつながる」と重松氏はエールを送った。(末継智章)

西日本スポーツ

最終更新:9/14(土) 7:31
西日本スポーツ

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