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6歳で「移民」になった。イラン出身のナディさんが語る“ふるさと日本”への思い

9/15(日) 10:21配信

ハフポスト日本版

1980年代後半から90年代前半にかけて、イランやパキスタン、バングラデシュなどから大勢の人が日本を訪れた。

【動画】ナディさんが語る“ふるさと日本“への思い | ハフポスト

バブル景気に沸く日本で、人手が足りなくなった製造業や3K(きつい・汚い・危険の略)労働の担い手としてだ。当時ビザ免除措置国だったこれらの国の人にとって、日本は来やすい場所だったのだ。


しかしバングラデシュとパキスタンは1989年1月に、イランは1992年4月にビザ免除措置が停止し、日本に滞在していた労働者たちは、追い払われていくことになった。

イラン出身のナディさんも1991年、6歳の時に両親と2人の弟とともに日本を訪れ、以来28年間日本で暮らしている。移民の子として来日してからこれまでの経験を振り返った単行本「ふるさとって呼んでもいいですか 6歳で『移民』になった私の物語」(大月書店)を6月14日に出版した。

日本は着物とちょんまげと機械の国?

ナディさんは1984年、イラン・イラク戦争のさなかにテヘランで生まれた。まだ幼なかったが、戦争の記憶は今もあると語る。

「空襲警報が鳴ったら地下室に逃げたり、配給制だったので物資をもらいに並んだりしたのを覚えています。テヘランが爆撃の標的にされると聞いたので、母の故郷のタブリーズ(イラン北部の都市)に疎開しようと家族で移動したら、そっちも空爆されたのでまた逃げたりしたのを、すごくよく覚えています」 

4歳の時に戦争が終わるも、父親が経営する商店の経営が立ちいかなくなり、一家は家を売却。借金が残っていたので父はタクシー運転手、母はアクセサリーを作る内職を始めたが、家の状況はどんどん悪化していった。

「配給だけでは足りないので物資を闇市で買う人が多い中、父は安価な値段で品物を人々に売っていました。それも経営が悪くなった原因だと思います。最近『Mehrabad-Narita』という、1991年に日本に来た若者をテーマにしたイラン映画を見たのですが、その中で『きょうだいがたくさんいて両親は朝から晩まで働いていてもお金が少なくて、欲しいものがあってもお金が欲しいと言えなくて、苦しくて。だから日本に来るしかなかった』と言っている人がいて。これを見て『私たちだけじゃなかったんだ』と思ったんです。私は小さかったからお金をねだったりはしなかったけど、住む家が小さくなってしまったりスラム街に引っ越したりするのが、当時とても寂しかった。またイランは親戚付き合いがさかんで、誰かの家を訪ねたら次は自分の家に招待しなくてはならないのですが、招待しても何も振舞えないから、行き来しにくくなったのも覚えています」

両親は借金を返すために、日本に出稼ぎに行くことを決意した。イランでも「おしん」や「水戸黄門」が放送されていたことや、日本の製造業の現場をテレビで見た経験から、当時のナディさんは日本を「着物とちょんまげと機械の国」と思い込んでいたそうだ。

「テレビで日本のベルトコンベアがたくさん映ってるのを見たことがあったので、機械の国で仕事があるから行くんだと納得したけれど、おしんや水戸黄門を見ていたので、同時に日本は着物とちょんまげの国とも思っていました。当時はインターネットもなかったし子どもだったから、なぜか全部が繋がっていたのでしょうね(笑)。だから不安はなく、むしろワクワクしていたのですが……」 

いざ成田空港に到着すると、父親が入国カードの生年月日を書き間違えたことで、別室に呼ばれることになってしまった。しかし4時間を超える取り調べののち、無事入国できた。その時のことを「奇跡だった」と、ナディさんは振り返る。

「大人になってから仕事の研修で入管職員の話を聞いたことがあるのですが、『イレギュラーな形で入国しようとする人は目が泳いでる』『緊張して汗をかき、書類を書き損じる』などと言っていたので、『それってまさしくうちのお父さん……』と思ってしまって。全てを処分して家族5人で日本に来てしまったけれど、入国できなかったら戻る場所もなく、借金だけ残ってしまう。だからどうにか入らないとならない。両親はすごいプレッシャーだったと思います」

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最終更新:9/15(日) 10:26
ハフポスト日本版

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