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バルサ驚異の16歳アンス・ファティとは何者か?レアル・マドリーを拒否した過去も

9/15(日) 12:13配信

GOAL

アンス・ファティは8月25日、ベティス戦でバルセロナ史上2番目の若さでラ・リーガデビュー。その翌週には初ゴールをマークし、9月14日にはバレンシアとのビッグマッチで1ゴール1アシストを記録し、勝利の立役者に。驚異の16歳は着々とスターへの階段を上っている。
(文=イグナシ・オリバ)

【動画】バレンシア戦で1ゴール1アシスト!

マドリー、セビージャを断りバルサへ

弱冠16歳11カ月と5日…アンス・ファティがカンプ・ノウの芝に足を踏み入れ、堂々バルセロナトップチームでのデビューを果たした。

バルセロナ史上、彼よりも若くしてラ・リーガのピッチに立ったのは、1941年に最年少記録を樹立したビセンテ・マルティネス・アラマだけだ。そしてカタルーニャの多くの人々は、ここに新たなスターが誕生したと疑うことはない。

バルサの下部組織ラ・マシアは現在、多くの才能豊かなプレーヤーで溢れていることで知られているが、その中でもファティは早い段階から注目されていた。

同じくバルサの下部組織で育ったセルヒオ・ゴメスやシャビ・シモンズが、トップチームでプレーできる機会を不安視してバルサを去ったことはニュースを賑わせたが、ファティが台頭したことで、ラ・マシアで磨いたスキルがトップチームでも十分通用することが証明され、サポーターたちは安心したことだろう。

幼少期を母国ギニア・ビサウで過ごし、つぎはぎのボールで遊んでいた彼の目には今、まったく異なる世界が広がっていることは想像に難くない。母マリアの手によって育てられた彼だったが、6歳になるまで父親であるボリと会うことはなかったという。

2001年に仕事のため母国を後にした父ボリは、後に家族を南スペインへと迎え入れる。そこで多くの仕事を経験した後、彼はセビリアの村、マリナレーダの村長であるジョアン・マニュエル・サンチェス・ゴルディーヨのドライバーとしての仕事を開始させた。

ボリの妻と子供たちをアフリカから連れてくる手助けをしたのが、そのゴルディーヨだった。そしてアンスは初めて自らの父親と会い、そのフットボールスキルを見せつけたのだった。

「他のアフリカの子どもたちと同じように、フットボールが好きなことは知っていたけど、こんなに上手だとは聞いていなかったよ!」

ボリは息子のベティス戦でのデビューの後、スペインのラジオ番組『COPE』に対してそのように語っていた。

すぐにその才能が近所で有名となったアンスは、セビリアの中心街からおよそ1時間の場所に位置する小さな村、エレラをベースに活動するチームを持つ学校に入学する運びとなった。

そこからプロのクラブがファティに関心を示すまでに、長い時間はかからなかった。彼の両親が、セビージャ・アカデミーのトップであるパブロ・ブランコからの電話を受けたのは2010年のことだった。それはアンスのみならず、彼の兄であるブライマをもクラブへと勧誘するための電話だった。

センターフォワードとしてのプレーを仕込まれたアンスの才能は、すぐにスペイン最大級のクラブの触手を反応させた。なんと、レアル・マドリーとバルセロナの両チームが、2年後でさえ10歳にも満たない少年への関心を明言したのだ。

ファティの両親は、マドリーとバルセロナ両チームのアカデミー本部を訪れ、子供たちの成長にとって最適な環境を模索した。その姿はちょうど、20年前のアンドレス・イニエスタの両親と重なって見せるものだったが、偶然にも彼らは、まったく同様の理由で同じ決断を下すこととなる。

「レアル・マドリーの方が金銭的な条件は良かったよ。だけどバルデベバス(マドリーの練習施設)に行ったとき、子供のための寮がないこと知ったんだ。彼らはハウスの中まで見せてくれたけど、私たちはバルセロナを選んだ。彼らは寮を持っていたからね」

ボリはバルサを選んだ理由をそう明かしている。

ファティをアンダルシアに引き止めておくため、セビージャのスポーティングディレクターのモンチもバルセロナ以上の金額を提示していたが、決断が覆ることはなかった。

それ以降、セビージャが試合に出すことを拒否したため、ファティは残念ながら2011年にプレーすることはなかったが、2012年までには、晴れて完全にラ・マシアのメンバー入りを果たしたのだった。

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最終更新:9/15(日) 12:13
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