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東と西は何が違う?京都の両本願寺 あの戦国武将が原因で決別、でも今は…

9/19(木) 15:00配信

まいどなニュース

 JR京都駅前(京都市下京区)に巨大な伽藍[がらん]を構える東本願寺と西本願寺。地元では「お東」「お西」と並び称される存在だが、二つの寺がもともと一つの教団だったことは意外に知られていないのではないだろうか。二つに分かれた歴史と現在の関係を探った。

 両本願寺の歴史の原点は、鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞にさかのぼる。親鸞以降はその子孫たちが教えを守り継いだが、教団としての規模は小さかったとされる。

 本願寺が門徒数を増やしたのは室町時代。現在では「中興の祖」とされる蓮如が各地で布教し、一大教団となった。蓮如は大阪の石山本願寺を拠点と定め、やがて門前町には多くの町民や商人が集まり、大いににぎわった。

 戦国時代に入り、各地で有力武将が台頭する。石山本願寺や各地の本願寺勢力を好ましく思わなかったのが織田信長だった。

 1570年、信長は石山本願寺を攻める「石山合戦」を開始。戦は10年以上続いたが1580年、最終的に和議が結ばれた。この際、教団に亀裂が入った。本願寺のトップ顕如の長男教如が徹底抗戦を主張したのだ。教如は一時的に父顕如から絶縁された。

 和議を受け入れた教団は、和歌山県北部や大阪府南部を転々とする。やがて1591年、豊臣秀吉により京都に境内地を与えられ、移転した。この場所が現在の西本願寺にあたる。

 翌年、顕如が亡くなると、いったんは長男教如が本願寺を継いだが、ほどなくして3番目の弟の准如にトップの座を譲った。父の遺言状があったためとも、秀吉が命令したためともいわれている。

 その後も教如は、各地で布教を続けた。彼のもとには多くの僧侶や門徒たちが集まり、一つの教団を形成していった。

 そして1602年、徳川家康は教如に境内地を与える。それは西本願寺から約500メートル東の場所だった。こうして東西の本願寺が並立し、400年以上がたった現在でも、二つの本願寺がごく近くで存在することになった。

 明治以降、西本願寺は「浄土真宗本願寺派」の本山に、東本願寺は「真宗大谷派」の本山となった。現在、浄土真宗本願寺派の所属寺院(末寺)は約1万。対する真宗大谷派は約8700カ寺を有する。教団規模としてはほぼ互角だ。教えそのものも、ともに親鸞を宗祖としていることや、「浄土三部経」と呼ばれるお経を根本経典にしていることから、ほとんど変わらない。

 ただ、地域性にはそれぞれ特徴がある。本願寺派は中国、九州地方に多くの寺院があり、大谷派は愛知や石川など中部地方に強い。
 両本願寺境内の建物の配置も少し異なる。いずれの本山も、阿弥陀如来を祭る阿弥陀堂と親鸞の像を安置する御影堂がセットにしているが、西本願寺は北側に阿弥陀堂、南側に御影堂を配置するのに対し、東本願寺は北側に御影堂、南側に阿弥陀堂という境内になっている。

 400年前の対信長への姿勢をめぐり鋭く対立した東西本願寺だが、現在はともに「真宗教団連合」という浄土真宗の集まりを構成している。さらに8月上旬には朝に行う法話の集い「暁天講座」や「朝の法座」に互いの僧侶を派遣し合うなど、良好な関係を築いている。

(まいどなニュース/京都新聞・浅井 佳穂)

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最終更新:9/19(木) 15:00
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