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賞賛だけでいいのか?リベラルが絶賛する映画『新聞記者』に感じた現場からの違和感

9/21(土) 11:40配信

ハフポスト日本版

違和感の正体

東京新聞の望月衣塑子さんが原案を担当した映画『新聞記者』が、好評らしく、リベラルな人々から賞賛されている。

公開直後から「ところで、あれ観た?」というのが、メディア業界の関係者と会う時、時候の挨拶代わりになっていた。かくいう私も、7月7日に渋谷「ユーロスペース」特別イベントで、件の望月記者と対談をした。

あらかじめ、私の感想を述べておくとーもちろん、望月さんにも伝えたがー、そこかしこに違和感が残った映画だった。

主人公の女性記者の取材プロセスが描かれておらず、超簡単にスクープを取れるような描写にも違和感があったし、私も社会部にいたはずなのに、社会部記者である彼女の取材手法に何らリアリティを感じなかったし、ラストシーンの決断にも「おいおい、そりゃあ信義則違反だろう」とツッコミを入れざるを得なかった。

伊藤詩織さんや前川喜平さんの身に現実に起きた「事件」を描き、タブーに挑んでいる的な賞賛も「日々の新聞に書いてあることばかりで、これがタブーなら新聞はタブーを破ってばかりだ」と思った。

この辺は個人の好みで、現場を回っていた私がついていけないと思っても、リアリティがないと思っても、絶賛する人はいるだろうと思う。

ついていけない「調査報道至上主義」

イベントでも語ったが、より根本的な違和感は映画で描かれている記者が、あまりに新聞社の理想像に忠実な「古典的な調査報道至上主義」とでも呼べる、非常に狭い「記者」イメージで描かれていたことにある。

新聞社の理想像だけでなく、ある世代や考え方の人にとっての「新聞記者」の理想像と言ってもいいだろう。

権力―今なら安倍政権―を監視し、徹底的に対峙し、発表されない権力の闇を、情報を持っているインサイダーに食い込んで暴いていくーー。プライベートの時間を犠牲にしても、スクープに殉じていく新聞記者像はある意味でジャーナリズムの美学そのものである。

政権批判さえしていれば記者の役割を果たしていて、満足だという人たちは拍手喝采だとは思う。

もちろん調査報道は地道で手間がかかるし、単純に費用対効果以上の価値があることは否定しない。だが調査報道、それも映画に描かれるような古典的な「調査報道」ばかりが花形扱いされ、美徳とされていいのだろうか。

今の時代にこんな「かくあるべき」像で、何が伝わるのだろうか。そこにあるのは、あまりにベタな新聞社のロマンティシズムだ。ニュースの世界は、そこまで単純なものないと思ってしまうのだ。

もう少し深めると、こうした理想像による画一化された価値観は、逆にニュースの危機につながってしまうと考えている。どういうことか。イベントでは展開できなこととを詳しく書いておこうと思う。

これもあらかじめ断っておくが、私はタイプは違うと思ったが、別に望月さんの存在ややり方を否定する意図はない。

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最終更新:9/21(土) 11:40
ハフポスト日本版

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