ここから本文です

昭和初期の風景がそのまま残る!「天浜線」11の秘密

9/22(日) 17:00配信

GetNavi web

静岡県の掛川駅と新所原駅(しんじょはらえき)を結ぶ天竜浜名湖線。天竜川の中流域を走り、奥浜名湖の美景に包まれるように走る。天竜浜名湖線という路線名よりも、略した「天浜線(てんはません)」の名で呼ばれることが多い。

「天浜線」の詳細を画像で紹介

この天浜線、多くの駅や橋、施設が昭和初期に開通した当時の姿を残している。列車を取りまく風景は昭和のイメージそのものだ。今回は静岡県内をのんびり走る天浜線で、おもしろローカル線の旅を楽しんだ。

【天浜線の秘密(1)】東海道本線のバイパス線として誕生した

天竜浜名湖線は国鉄二俣線(ふたまたせん)として1935(昭和10)に一部区間が誕生、1940(昭和15)年に全通した。

当初、二俣線の計画は掛川駅から三河大野駅(飯田線/愛知県新城市)を経て、岐阜県の恵那地方まで至る遠美線の一部として計画された。当時の日本は戦時色が濃くなりつつあった。満州事変が1931(昭和6)年に勃発、それ以降、欧米諸国との対決姿勢が強まっていく。

当時、遠州灘に沿って走る東海道本線は、列島の大動脈とも言える重要な路線だった。もしこの路線が敵から攻撃を受けたとしたら……。そうした軍事的な理由から、掛川駅から天竜二俣駅(開業当初は遠江二俣駅)を経て、新所原駅を結ぶ現在のルートに変更。東海道本線のバイパスルートとして、急きょ建設されたのだった。

その後に起きた太平洋戦争では、軍艦による艦砲射撃よりも、飛行機による攻撃が主体になっていった。後世の人間が考えれば、建設自体に疑問を感じる。バイパス線として果たして二俣線は役立ったのだろうか。

1944(昭和19)年12月の発生した東南海地震の時、さらに翌年7月末の浜松空襲で東海道本線が不通になった時に迂回路として利用された。浜松空襲では米英連合軍の戦艦による艦砲射撃も行われていた(この時の目標には国鉄浜松工機部も含まれた)。全線、単線ということもあり、迂回運転も大変だったことだろう。とはいえ戦時下にしっかり役立っていたのだった。

路線が誕生して40年あまり、国鉄分割民営化となる直前の1987年(昭和62)3月15日に国鉄二俣線は廃止された。同日に天竜浜名湖鉄道が生まれた。路線の名前も天竜浜名湖線となった。

1/7ページ

最終更新:9/22(日) 17:00
GetNavi web

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事