ここから本文です

久保竜彦「独特の哲学」から見る第二の人生 塩づくりと農業、断食、娘のスマホ禁止

10/12(土) 16:10配信

REAL SPORTS

久保竜彦「独特の哲学」から見る第二の人生 塩づくりと農業、断食、娘のスマホ禁止

長きにわたりサッカーファンを魅了し続けた“規格外”のストライカー久保竜彦が歩み始めた新しい生活。それは現役時代から思い描いていたプランでもあり、ケガに悩まされ続けた彼だからこそたどり着いた境地でもあった。人の多い都会が苦手だった久保が、「気持ちいい場所」で歩み始めた新たな人生とは? 引退した現在も実践する驚きのトレーニング法、独特な子育て論なども含め、第二の人生を歩むに至ったその人生観に迫る。


(本記事は、9月27日に『REAL SPORTS』で掲載された記事に一部、加筆・修正を行って掲載しています)

誰しもに訪れる定年=引退後のプラン

プロフェッショナル・アスリートの定年は、ビジネスマンよりも20年以上早く訪れる。

その定年=引退を自分で決められる選手は、ほんの一握りだ。多くの場合は、契約をしてくれるクラブがなくなってしまうという辛い現実を突きつけられて、定年という壁が突然、目の前に立ち塞がる。そこに対して、常に準備をしていないと、次の人生が迷い道に入ってしまう。

実は、プロアスリートよりも安定性で勝っているように見えるビジネスマンたちも、定年という予定調和で大団円を迎える人は意外と少ないものだ。リストラ、転職、そして会社が崩壊する危険性もある。人生というのは常に剣が峰。微妙なバランスで立ち尽くしつつ、真っ白な霧に包まれた自分自身を信じて、細くて険しい稜線を歩いていくしかないのである。

久保竜彦のような個性は、いったい引退後の生活をどうデザインしているのか。彼がそういうことを考えるタイプにはとても見えなかった。なので、横浜F・マリノスへの移籍前、インタビューのついでに聞いてみたことがある。

「いずれ、引退の日がきますが、現役を退いたあとのプランは?」
「うーん……、農業っすかね」
「えっ」
「畑をやりたいって思っているんですよね」

まさか、その想いが現実化するとは、思ってもいなかった。

苦労の末に手にした「子どもの頃のようないい感覚」

2006年のFIFAワールドカップ出場が叶わなかった久保は、シーズン終了後に横浜FMの残留要請を振り切り、慕っていた奥大介を追うようにして横浜FCに移籍する。開幕の浦和レッズ戦で強烈極まりない40mドライブシュートを叩き込んだものの、そこからはずっとケガとの戦い。腰、膝、足首。身体中がボロボロとなって、日常生活にすら支障をきたす事態に。

痛みは横浜FM時代の2年目から、顕著になった。実はサンフレッチェ広島時代から違和感はあったという。それでもテーピングと痛み止めを飲むことで何とか対処できた。しかし、28歳という本来であれば全盛期を迎えていたはずの2004年、久保はほとんど本来のプレーができなくなる。痛みがなんとか収まった時は、異次元のプレーができた。しかし、もはや痛み止めでもマッサージでもテーピングでもどうにもならなくなった。ハードパンチャーが己の拳の強さで手を痛めるように、広島時代に彼の身体を見ていた野村博幸トレーナーが「特別」と表現した身体の柔らかさが生み出す強烈な捻りが、久保の骨を蝕んだのかもしれない。

必死の治療を重ねても、まったく回復の兆しが見られない。何が原因で痛みが出ているのか。そういえば、広島時代にもメディカル的には回復しているはずなのに、痛みがどうしても止まらないという時期があった。もしかしたら、その時と症状の重さの違いはあれど、根は同じだったかもしれない。

「タツはとても真面目でストイック。その彼があれほど、苦しんでいた」

当時、横浜FMのフィジカルコーチを務めていた池田誠剛コーチ(現広島フィジカルコーチ)は、横浜FMのメディカルスタッフの了解を得て、御殿場でスポーツクリニックを営んでいる夏嶋隆先生を紹介した。池田コーチ自身、夏嶋先生の治療を受け、前十字靭帯を切った膝が回復した経験を持っていた。

「足の指がおかしい。指がおかしいから膝もねじれるし、骨もずれる。指を矯正しないと腰痛は繰り返すばかりだから」

夏嶋先生の指摘に対し、当時の久保は聞く耳を持たなかった。「腰と指が関係しているわけがない」と思っていた。それでも腰を先生に触ってもらえば痛みは確かに和らぎ、試合もできる。指の治療をやると痛くて、翌日のトレーニングにも影響していた。久保は「腰だけの治療をお願いします」と依頼し、半年間ほど試合前に治療してもらっていたという。

しかし、その効果もやがて続かなくなった。腰はヘルニアを患い、背骨にもヒビが入っていた。横浜FCに移籍して驚愕のゴールを見せたあと、久保は自分のプレーがまったくできなくなる。5月12日、広島戦でベンチ入りして以降、彼はピッチから消えた。はりもやった。断食も試みた。山形に行って温泉での治療も行った。しかし、根本的な治癒にはならない。

2007年秋、横浜FCが御殿場でミニキャンプを張った時、疎遠になっていた夏嶋先生と再会。痛みがまったくひかず、引退も考えていた久保は、わらにもすがる気持ちで「もう一度、治療をお願いします」と頼み込んだ。朝・昼・晩、本格的な指の治療。日本代表FWが「ウギャー」と思わず叫んでしまう痛み。しかし少しずつ、痛みは快方に向かった。サッカーをやったらどうなるか、そこはまだ不透明だったが、少なくとも日常生活での痛みがなくなったことが、久保の心を軽くさせた。

横浜FCとの契約が解除になったあと、彼はトライアウトに参加。その直後、J2降格の憂き目を見た広島から復帰養成が届く。

「本当に嬉しかった。ああいうわがままを通す形で移籍したので、戻ってこれないと思っていたから。オファーは他にもあったし、J1からもあった。でも、自分がプロとしてサッカーでメシが食べられるようになったのも、広島が育ててくれたからだったし、自分のわがままで移籍させてもらって、そしてまた声を掛けてくれて。広島復帰を選択したのは、理屈じゃないんです」

信じがたいゴールを見せつけた。広島のJ1昇格やXEROX SUPER CUP(現FUJI XEROX SUPER CUP)の優勝にも貢献した。しかし、かつての輝きは戻らせないまま、2009年シーズン終了後に契約満了。翌年からツエーゲン金沢(当時JFL)でプレーしたが2011年に退団。タイのクラブからもオファーが届いたが、結局は引退を決意した。徹底したケアや治療を繰り返し、あれほど苦しめられた腰痛は消えていたが、久保竜彦という名前にふさわしいプレーが復活したとは言えなかった。

「ただ、夏嶋先生のところに連れていってもらったり、断食のことを紹介してくれたり。一番苦しかった時に、一番向き合ってくれたのは、(池田)誠剛さんでした。そしてそのおかげで、子どもの頃のようないい感覚が戻ってきたんです。この経験によってすべての考え方が変わり、今に至っています」

2012年、広島県廿日市市をホームとする廿日市FCでコーチ業をスタートさせる。だが、「ゆくゆくはS級ライセンスをとってJリーグの監督に」という希望はなかった。大人の指導をするつもりはなく、子どもたちと一緒にサッカーがやりたかった。廿日市FCのトップチームでプレーしたこともあったが、肉体的な限界を感じて、2年でやめている。

1/3ページ

最終更新:10/15(火) 12:57
REAL SPORTS

こんな記事も読まれています

スポーツナビ サッカー情報

あなたにおすすめの記事

あわせて読みたい