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13日19回目の命日 炎の15番形見のスパイク、後輩は「履けませんでした」

10/13(日) 8:02配信

西日本スポーツ

 ホークスにとって忘れられない「10月13日」が今年も巡ってきた。19年前の2000年、列島が「ON対決」で沸いた日本シリーズの開幕直前。福岡ダイエー(現福岡ソフトバンク)の中継ぎエース、藤井将雄さん(享年31)が肺がんのため逝った。人情味あふれる熱血漢で、ダイエー初優勝時のチームメートだった現ソフトバンクの工藤公康監督ら先輩から目をかけられ、後輩から慕われた。1998年から7年間、ダイエーの投手としてプレーした木村茂さん(43)もその一人。形見のスパイクとともに「炎の15番」は心の中で生き続けているという。

【写真】大胆にも王監督(当時)に手書きのメッセージを送る木村さん

 軸足の右足のつま先を保護する「ピー革」はマウンドの土で汚れ、破れかかっている。使い古されたスパイクを、木村さんは福岡市の自宅リビングでケースに入れて大切に保管している。2000年の夏前のこと。再入院が決まり、雁の巣球場のロッカーで荷物整理をしていた藤井さんから「おい、履いてみろよ」と渡された。

 木村さんは当時大卒3年目の24歳。最速153キロの本格派右腕として王貞治監督や尾花高夫投手コーチから「秘密兵器になってほしい」と毎年のように期待されながら、伸び悩んでいた。力みまくる姿が藤井さんに似ていると、付いた呼び名は「力丸2世」-。そんな木村さんを藤井さんも人ごとに思えなかったのか、キャンプ中は部屋に呼んだり、遠征先で食事に誘ったりしながら気にかけた。

■闘病中のマウンド「気力で投げていた」

 1999年に最多ホールドに輝くなどダイエー初優勝に貢献した藤井さんは同年の日本シリーズ後、体調を崩して入院。以後入退院を繰り返しながら、翌2000年はファームの練習に参加して2軍戦6試合に登板した。球速は130キロちょっと。それでも肩で息をしながら、打者に立ち向かう姿を木村さんは目に焼き付けた。「気力だけで投げている感じでした」。スパイクを譲られたのも、その時期だった。「サイズは僕と同じ27センチ。でも、履かなかった。履けませんでした」。1軍での実績がない木村さんは、メーカーからスパイクを提供されるような立場ではなかった。「用具一つ購入するのは大変。そんな私を心配してくれたのか、激励の意味だったのか…」。死期を悟った藤井さんの形見。「負けるな、と言われている気がした」

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最終更新:10/13(日) 18:12
西日本スポーツ

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