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【映画評】『ジョーカー』から私たちは決して目を背けられない

10/14(月) 18:38配信

The Telegraph

【記者:Robbie Collin】
★★★★☆(5段階中4の評価)
(※若干のネタバレが含まれています)映画『ジョーカー』は、8月から9月にかけて開かれたベネチア国際映画祭でプレミア上映されて以来、私の評論家としての14年間のキャリアの中で最も奇妙な軌跡をたどっている。この1か月間で、トッド・フィリップス監督が手掛けたこのアメコミスリラーは、アカデミー賞の有力作品と目され、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したかと思うと、(監督の発言の一部が取り沙汰され)「ウォーク・カルチャー(不当な差別や偏見を認識しようとする動き)」をめぐってツイッターで議論の的となり、あらゆる映画レビューで話題になり、特に際どいネット上の書き込みには米軍や警察、連邦捜査局(FBI)も警戒態勢を敷いたと報じられた。

『ジョーカー』がこれほど大きな反響を呼んだ理由の一つは、この作品をどれほどシリアスに受け止めればいいか、おそらく誰も分かっていないせいだ。一番分かっていないのは、フィリップス監督自身かもしれない。フィリップス氏はベネチア国際映画祭から程なくして発表されたインタビュー記事で、本作を「リアルな映画」と表現した。主人公を怪演したホアキン・フェニックスと一緒に「大手制作のアメコミ映画という隠れみの」を利用してリアルな映画を作ったのだと。

 しかし、映画の題材をめぐる議論が過熱してくると、監督は意見を改めたようだ。暴力的な内容についてはアクションファンタジー映画『ジョン・ウィック:パラベラム』を引き合いに出し、「バットマン」シリーズの古典的な悪役ジョーカーについては「80年ほど前につくられたフィクションの世界に生きる架空のキャラクター」と評した。つまり、今回の作品は「リアル」なんかではないと言いたいのだろう。

 しかし、本作に登場するジョーカーは、孤独で、恨みを募らせ、心に刻んだことをノートに殴り書きするようなニヒリストで、あることから世間の関心を高めるようになる。米国で相次ぐ銃乱射事件でおなじみの人物像だ。こうした事件の実行犯たちは多くの場合、上記の特徴にぴたりと当てはまる。

 銃乱射事件の犯人がネットの掲示板で匿名のインセル(自分に交際相手がいないことを対象である女性のせいにする主に異性愛者の男性)たちから称賛されるように、ジョーカーもまた仮面をかぶった反乱分子たちの抵抗の象徴となる。欠陥のある社会をひび割れた鏡に反映させる本作の手法を評価するかどうかに関係なく、これは間違いなく要となるポイントだ。

 私はこれまでに本作を3回見た。ベネチア国際映画祭で初めて見たときは興奮と衝撃を覚え、そうした感情から離れて2回。それでも今なお、他の多くの映画よりこの作品が実に危険に思えるのは、少なからず、作品の世界観が分かりにくく、一貫性すらないことにある。とはいえ、フェニックスが演じる主人公アーサー・フレックとジョーカーが共鳴し合っていないという指摘は受け入れ難い。なぜなら、この映画はアーサーが更衣室の鏡で自分を見つめているシーンから始まり、2時間を通してずっと彼の視点のみで展開されているからだ。

 ある人物に共鳴することと、その人物を支持することはもちろん別だ。だが『ジョーカー』は、主人公に対する支持をかなり示してもいる。アーサーがジョーカーというペルソナを用いることが狂気の始まりと同じく、自己実現の始まりとして表現されている描写に限っては確かにそう読み取れる(アーサーが踊りながら階段を降りて行く場面を見れば一目瞭然だ)。

 しかし、作中で繰り広げられる数々の殺人行為は、恐怖以外の何ものでもない。フェニックスが跳ね回る影が地下道の壁をよぎるシーンは、フリッツ・ラング監督の映画『M』の中で子どもばかりを狙う殺人鬼のシルエットや、キャロル・リード監督の『第三の男』で警察から逃走するオーソン・ウェルズの影を連想させる。一方で、アーサーが犯した殺人は、鬱積していた市民感情をも刺激し、アーサーはまさしく、怒れる群衆によってヒーローへと祭り上げられていく。

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最終更新:10/27(日) 19:33
The Telegraph

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