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「水俣 MINAMATA」 タブーを突き崩した告発 ユージン・スミス、アイリーン・スミス【あの名作その時代シリーズ】

10/15(火) 18:30配信 有料

西日本新聞

子どもたちと同じ目線で話しかけるユージンの姿勢は、そのまま水俣への接し方でもあった=1973年5月(渕上武さん撮影)

 「あの名作その時代」は、九州を舞台とした作品、または九州人が書いた著作で、次代に残すべき100冊を選び、著者像や時代背景、今日的な意味を考えながら紹介するシリーズです。西日本新聞で「九州の100冊」(2006~08年)として連載したもので、この記事は07年9月2日付のものです。

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 一九七一年九月七日朝、熊本県水俣市の駅に寝台列車から降り立った夫婦がいた。二人の視線の数十メートル先には、水俣病原因企業チッソの正門がどっしりと構えていた。世界的にも著名な写真家になっていたW・ユージン・スミスは五十二歳。十日ほど前に結婚したばかりのアイリーン・M・スミスは二十一歳。三年三カ月に及ぶ水俣での取材生活の幕開けだっ
た。
 「世界へ伝えなければならない」。そう直感して訪れた水俣の地であった。二人は地域社会の一員となり、その暮らしの内側から患者や被害者らの心情、水俣という町を写し取っていった。高度成長という逆らいようのない時代の流れ、変わる市民生活と変わらない漁師の生活。その中での差別、偏見、中傷…。日本の片隅の町で起こった比類なき水俣病事件の実相を、どう表現すればよいのか。患者や住民を巻き込んだ共同作業は四年後に、米国で出版する「MINAMATA」(英語版)として結実する。

     ◇

 二人が暮らした借家は、今は取り壊されてもうない。同市南部に広がる水俣病多発地区の一角にあった。寝起きする部屋は一間で、まきでたき付ける五右衛門風呂があった。ユージンは、常に酒を手放さなかった。従軍特派員として赴いた沖縄戦で、砲弾の破片が体にくい込み、取り除けずに残っている。その痛みを和らげるために飲んだが、量は尋常ではなかった。六四〇ミリリットル瓶のウイスキーを一日で飲み干した。

 風変わりな夫婦を、子どものようにかわいがってくれた患者家族や、お金の工面に苦心する二人を気遣って晩ご飯に誘ってくれた隣人たちとのきずなは次第に深まっていった。胎児性患者たちが集まる「若衆宿」でも飲み、ともに踊った。写真集に「拾い集め生きる命」の章を設けられた胎児性患者の坂本しのぶさん(51)=同市袋=は当時、まだ中学生。若いアイリーンを「お姉ちゃん」と慕い、恋の悩みを打ち明ける仲だった。

 水俣に「故郷」のような親近感を抱いたユージンだったが、感性で被写体に迫ることを優先させたのだろうか、日本語を積極的に身に着けようとはしなかった。それゆえに日本人の母を持ち、日本語と日本文化に通じたアイリーンは大切な存在であった。助手であり、マネジャーであり、通訳であり、妻である。なにより複雑な位相を見せる水俣病に向き合う同志だった。二人は、患者の日々の暮らしから闘争の現場まで、あらゆる場面を切り取っていった。 本文:2,839文字 写真:1枚

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西日本新聞

最終更新:10/15(火) 18:30
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