ここから本文です

思い出したくない・・・家族4人を奪った戦争 「震える少女」が歩んだ戦世、戦後 <震える少女の物語>1

10/15(火) 7:05配信

琉球新報

 「あんねーる戦(いくさ)でぃ、むるうらんなてぃ」(あんな戦争でみんな死んでしまった)
 今年6月17日、浦崎(旧姓・賀数)末子さん(81)=那覇市小禄=は74年ぶりに糸満市大里の農道を訪れた。沖縄戦末期の1945年6月下旬、浦崎さんはこの地で米兵に捕らわれた。その時、撮影された浦崎さんの姿が沖縄戦の悲劇を象徴する「震える少女」として今日、県民の心に深く刻まれている。

「震える少女」は私 米軍撮影の沖縄戦記録映像 81歳の女性が名乗り 「初めて見る米兵怖かった」

 浦崎さんは38年4月、3男3女の三女として高嶺村(現・糸満市)与座で生まれた。沖縄戦中、海軍の電波探知機部隊が駐屯していた与座岳で日米両軍が激しく戦った。

 日本軍に徴用された父親の松さんと長男正儀(しょうぎ)さん、嫁ぎ先にいた長女トシさん、疎開していた次男弘昌さんを除く一家4人は激戦地となった与座にある墓で息を潜ませていた。やがて隣家の墓が砲弾を受けたことを知り、一家は墓を出た。
 逃避行の最中、銃撃で腹を負傷し歩けなくなった母カメさんは、三男の正弘さんだけを残して逃げるように浦崎さんに告げた。
 「母は死ぬことを覚悟していたんだろう」
 6歳だった浦崎さんは、母や弟と別れ、15歳上の次女マサさんと2人で逃げた。その後間もなく、米兵と遭遇した。

 米軍に捕らわれ、映像を撮られた浦崎(旧姓・賀数)末子さん(81)はトラックに乗せられ、玉城村(現・南城市)の収容所へ向かった。その途中、終戦を知った。その後、越来村(現・沖縄市)のキャンプ・コザに移動する。そこで別れた母カメさんと弟正弘さんと再会した。
 「また、生きて会えるとは思わなかった」

 過酷な戦争によって家族は深い傷を負った。末子さんと別れた後、カメさんと正弘さんが避難した親戚の墓で米軍のガス弾を受けた。正弘さんは後遺症で衰弱していた。腹部を負傷して歩けなかったカメさんに代わり、末子さんは食料を探し回った。「芋のかすを掘り起こして食べ、飢えをしのいだ。木片をヘラ代わりにして畑を掘って食べられる物を探した」
 正弘さんは満足な治療を受けられないまま、キャンプ・コザで息絶えた。まだ5歳だった。

1/2ページ

最終更新:10/15(火) 7:05
琉球新報

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事

Yahoo!ニュースからのお知らせ