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危険物としてのキャラクターの呼び声。布施琳太郎評「TOKYO 2021美術展『un/real engine──慰霊のエンジニアリング』」

10/18(金) 15:22配信

美術手帖

セキュリティと危険物

 黒瀬陽平のキュレーションによる本展は、2つの会場に分けられている。鑑賞を終えた僕の関心を真っ先に引いたのは、「Site
B『祝祭の国』」に対して、「Site A『災害の国』」が文字にあふれ、あまりに饒舌だったことだ。

 「Site
A『災害の国』」は、もういっぽうの会場と比べて倍の大きさのハンドアウトに作品解説が所狭しと記載されているのみならず、展覧会会期の開始後に《室内劇 se
cure》が追加された(*1)。本作は展示会場に散逸した黒瀬の手によるテキストが、ほかの展示作品を巻き込みながら展開するものだ。そこでは宮沢賢治の『注文の多い料理店』を参照/引用しながら「セキュリティ(se/cure=心配/(から)離れる)」と「危険物」の関係について語られた。

人間が心配なら、山猫も心配だろう。
人間の「セキュリティ」もあれば、山猫の「セキュリティ」もある。

賢治は、虚構の世界のなかに、人間の「危険物」を
持ち込ませないための「セキュリティ」を、
童話のかたちで描いたのではなかったか。


 同会場に展示され、室内劇に組み込まれた《東海道五十三童子巡礼図》というパノラマ絵画には、江戸から京都へと歩みを進めるアニメ的な造形のキャラクター(善財童子)が所狭しと描かれている。また、その左方の壁面には室内劇のテキストが張り出された。そこには東海道が、江戸と京都の流通を管理し、江戸城を守るためのセキュリティの道であると同時に、江戸から西へ向かう人々にとっては巡礼と観光のための道であることが記されている。


 そしてほかの作品を鑑賞しながら歩みを進めると、バックヤードのような空間に展示された1枚のキャンバスと出合うこととなる。それは先ほどのパノラマ絵画の一部でありながらも、分離されるかたちで展示されたものだ。この部屋には『注文の多い料理店』のラストシーンの山猫の台詞が散りばめられている。

よぼうか、よぼう。おい、おきゃくさん方、早くいらっしゃい、いらっしゃい。


 そのキャンバスに描かれたのは、アクリル絵具特有の安っぽい艶を伴った暖色によって燃え上がるように発光する建築物と、前方で手を合わせるキャラクターの後ろ姿である。あまり精査されたとは思えない構図選びと、決して十分ではない描写は、この絵画が作者とモチーフの関係を未整理のままで描いたことを伝えている。


 あの事件のことを思い出さずにはいられない。今年の夏、ひとりの人間が江戸(関東地方)から京都へと、現実と虚構をつなぐ道を辿った。京都アニメーションへと向かった彼は「危険物」を持っていた。現実と虚構が同時に暴力に侵されたのだ。それは本来は聖地巡礼の道だっただろう。しかし、あまりに凄惨な事件が起こった。


ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、よくわからないのです。


 室内劇と先述の絵画の作者としてキャプションに記された、黒瀬陽平率いるカオス*ラウンジは、2010年の春に10年代のアートの到来を華やかに嘯く「カオス*ラウンジ宣言」を掲げて鮮烈なデビューを果たした──情報社会のアーキテクチャの創発性に基づいて行われる新たな芸術実践だ。だがその宣言の批評としての効力は、東日本大震災と、それに対するオタクたちの現実逃避によって失われたのだと黒瀬は述べる(*2)。


 震災以降の活動は、現実/虚構や、過去/現在を始めとした相互に排他的な時空を架橋し、重ね合わせ、二重に知覚させる「キャラクターの呼び声」や「負の拡張現実」に基づいたものへと方向転換がなされる(*3)。たしかにこれまでの彼(ら)はその声に正しく応答してきた。《東海道五十三童子巡礼図》もまた、そうした系譜に位置付けられるものだろう。だが室内劇においては、現実と虚構の枠組みを超えて行き来するものこそが「危険物」と名指される。


 つまり、その「呼び声」こそが「危険物」なのだ。そして「セキュリティ」は「危険物」を疎外することを志向する──そうでないなら「くしゃくしゃの紙屑のように」人間を変質させるだろう。あの事件は「心配から離れること=セキュリティ」について語らせ、その描画を滞らせるほどに、彼(ら)に対して大きな衝撃をもたらした。かくして「セキュリティ」は、震災以降、すなわち「カオス*ラウンジ宣言の失効」以降の、「キャラクターの呼び声(=危険物)」に基づいた黒瀬陽平の多様な芸術実践を否定し、やもすると失効させるのではないだろうか。


 彼は本展のステートメントにおいて、この国がほぼ一定の間隔で「災害」と「祝祭」を繰り返してきたことに対して、「今まさに眼前で繰り広げられようとしている忘却と反復のなかで、『宿命』に抗い、反復の外へ出るための術を模索することこそ、芸術の『使命』であるはずだ」と述べた。これは震災の後に出版された彼の著作でなされた議論を想起させる。つまり1970年の大阪万博(日本万国博覧会)において岡本太郎が手掛けた「テーマ館」で提示された、矛盾と混沌に満ちた人類や生命の「過去」(地下展示)と「未来」(空中展示)と、その地下と空中の展示を貫いて屹立する《太陽の塔》(1970)を「キャラクターの呼び声/負の拡張現実」と名指したことだ。


 今回の展覧会は、「テーマ館」において垂直に分離した2つの展示会場を、水平に分離した2つの会場へとスライドさせたうえで、この国において無時間的に反復する「災害」と「祝祭」を扱ったものだと要約することもできる。たしかに2つの会場は、矛盾と混沌に満ちた日本現代美術史バージョンの「テーマ館」としては豊かである。そこには半世紀前の祝祭(オリンピックと万博)から来たる祝祭に至るまでの多様な芸術実践が陳列されている。


 しかし僕には、過去の万博における《太陽の塔》のように、対極に位置する対象を貫いて屹立する「負の拡張現実」あるいは「キャラクターの呼び声」を、展覧会のなかに見つけることはできなかった。だがその理由は、いっぽうの会場にのみ配された室内劇を鑑みれば理解できることである。本作は「セキュリティ」による「危険物=キャラクターの呼び声」の疎外について語ることで、その作品内容が「カオス*ラウンジ宣言の失効」の失効を示しているのだから。

 だがしかし失効と否定に基づく弁証法こそが、これまでの彼(ら)を前進させてきたこともまた確かな事実である。

*1──本稿の引用はすべて《室内劇 se
cure》からのものである。また本作のキャプション上の作者は「カオス*ラウンジ」であるが、黒瀬陽平や展示作家の梅沢和木と直接話した際に《室内劇 se
cure》のテキストは黒瀬が書いたものであると明言していたため、本文中で「黒瀬の手による」と表記している。また本作は僕自身が初日の午前中に展覧会を訪れた際にはまだ展示されていなかったが、9月25日の夕方ごろには展示されていることを確認した。10月7日に再訪した際に2つほどテキストが追加されているのも確認したので、今後も大きな変化があるかもしれないが、この時点での鑑賞に基づいて本稿は執筆された。
*2──『カオス*イグザイル』特設サイト

http://chaosxlounge.com/chaosexile/chaosexile.html(2019年9月25日アクセス) カオス*ラウンジ『カオス*ラウンジⅰ』(2011)

*3──つまり京都アニメーションが制作した作品群において現実と虚構を架橋するキャラクター。あるいは寺山修司における現実の都市空間と演劇空間の偶然的重ね合わせ=市街劇の拡張現実的形式。そしてその形式を参照しながら、東日本大震災の被災地と複数の過去を地図や手紙と作品によってオーバーラップさせる「カオス*ラウンジ新芸術祭」シリーズ。そして現実の表示/操作機器とイメージを二重に見る系譜としての19世紀の視覚玩具からマルセル・デュシャン、コンピュータゲームへと続く歴史。これらの現実と虚構の接点こそが室内劇において「危険物」と名指されたものの具体的なバリエーションだと言えるだろう。

【参考文献】
黒瀬陽平「『らき☆すた』──空転するメタ意識」『REVIEW HOUSE 01』(2008)
黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。──アニメ表現論序説」『思想地図vol.1』(2008)
黒瀬陽平『情報社会の情念―クリエイティブの条件を問う』(NHKブックス、2013)
「カオス*ラウンジ新芸術祭2017 市街劇『地獄の門』」ウェブサイト http://chaosxlounge.com/wp/archives/1861
(2019年9月25日アクセス)
「カオス*ラウンジ新芸術祭2017
市街劇『百五◯年の孤独』」ウェブサイト http://chaosxlounge.com/wp/archives/2157 (2019年9月25日アクセス)
黒瀬陽平「現代美術の起源──二重化された視覚の系譜」『ゲンロン8 ゲームの時代』(2018)

文=布施琳太郎

最終更新:10/18(金) 16:22
美術手帖

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