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「ラストエンペラー」愛新覚羅家“末裔”が語った中国建国70年

10/18(金) 11:30配信

FNN.jpプライムオンライン

清朝王室の姓「愛新覚羅」

「令和」の文字を手にカメラに向かう高齢男性。書家の愛新覚羅恒徳(あいしんかくら・こうとく86歳)氏だ。満州族の姓である愛新覚羅と言えば、映画でも有名な「ラストエンペラー」こと清王朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が有名だが、溥儀とは遠縁に当たり、清の皇帝の血を引く”末裔“だ。

【画像】1枚の書に1万元(約15万円)ほどの値段が付くという書家としての恒徳氏

激動の時代を生きた恒徳氏に中国建国70年について聞いた。

「王府」の生活から「平民」へ

辛亥革命によって既に清王朝は滅亡し、国民党の下で中華民国が成立していた1933年、恒徳氏は北京で生まれた。当時一族は故宮近くにあった皇族の邸宅である「王府」で暮らしており、恒徳氏を取り上げたのは日本人女医だったという。「王府で暮らしたのは2,3歳のころまでだった」と言い、王府を出た後もしばらくは皇族時代の金銀財宝や家具もあり、召使いや家庭教師を雇うなど、幼少期は比較的裕福な生活を送っていた。

しかし、その後一家の収入が、頤和園(清王朝の庭園。中華民国時代に現在の公園となり、その後ユネスコの世界遺産に)で総務関連の仕事をしていた父親の給与だけとなった。祖母が養っていた孤児も含めると10数人の大所帯だったこともあり、次第に生活が苦しくなり、財産を切り売りしながら生計を立てるようになった。

中国共産党が国民党との内戦に勝利し、1949年中華人民共和国が成立した頃、恒徳氏は高校入学直後だった。

共産党が政権を取った後は「都市平民」という身分を与えられ、父親にはネズミなど病院の実験で使う小動物を管理する仕事が与えられた。「王府の生活からは完全にかけ離れ、普通の市民の生活になった」という。

家に売れるものはほぼなくなり、生活苦から恒徳氏は高校1年生の時、南方への集団就職に応募した。しかし出自が“悪い”ため北京に残され、思想改造の一環として配属された警察学校を経て、公安局の警察官となった。

文化大革命、元皇族への迫害

元皇族という出自のため当初は公安局の反スパイ秘密機関に配属され、家族との連絡も許されなかった。しかし、成績がよかった恒徳氏は1年後には「思想改造が成功し反革命的ではない」と判断され、警察に転属になったことでようやくそれも許されるようになる。警察では事件を担当する部署に配属され、「成績が良く、ほぼ毎年表彰された」という。

そして、1952年18歳の時、当時の情勢の中で生き残るため、共産党の意見に従い入党することになった。

しかし、1960年代に文化大革命が始まると「皇族の血を継いでいる」という理由で、職場の「批判闘争大会」で何度か吊し上げられた。集会で群衆の前で跪かされ、反革命分子として、罵詈雑言を浴び、自己批判を迫られた。それでも「元皇族を守ってくれる派閥もあり、三角帽子は被らずに済んだ」(注・文化大革命では、批判を受ける者に「反革命分子」などと書かれた、大きな三角帽子を被せたり、プラカードを首に下げさせ吊し上げた)などと半世紀前の記憶をよどみなく語った。

「私は皇族という“悪い”出自だったので職を解かれることが一番心配だった。当時は出自が “悪い”と仕事も見つけられなかったからだ」。

1969年には北京郊外の収容施設「労働改造所」に入れられ、農場などで働いた。そして翌年農村に「下放」され(注・都市部の知識人、青年らを農村に移住させる当時の運動)、農作業のほかトイレの汲み取り作業や石炭の運搬作業にも従事したという。北京に戻ることが出来たのは労働改造所に入れられてから6年後の1975年だった。

一族には更に悲惨な運命を辿った人もいる。恒徳氏の叔父は、過去に国民党の特務機関や、日本の傀儡政権だった満州政府で働いていたなどと無実の罪を着せられ、「反革命的」だとして一家は苛烈な攻撃を受けた。

家に何度も「紅衛兵」がやってきて、清王朝から伝わる宝物(ほうぶつ)から、金品、家具・調度品に至るまで破壊、没収された。破壊が行われている間、一家6人は家のトイレに閉じ込められ、家が壊される音を聞いているしかなかったという。叔父はやがて紅衛兵から受けた暴力や精神的苦痛から病気になり、60歳代で亡くなった。

また、恒徳氏の母親は清王朝で新疆を治める将軍の娘だったことから、街中の「批判闘争大会」で吊るしあげられた。「母は嫁いでからは何の仕事もしておらず、専業主婦だったのに」と当時の無念さを語った。

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最終更新:10/18(金) 11:30
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