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塚田晃平さん“早大のタブー”破り初の育成契約で広島へ 保険会社の営業務める今も生きるプロでの経験

10/20(日) 11:23配信

東スポWeb

【気になるアノ人を追跡調査!!野球探偵の備忘録(94)】2006年夏の甲子園決勝で、早実は延長15回引き分け再試合の末に全国制覇を果たした。エースの斎藤佑樹投手(現日本ハム)は大会を通じて948球を投げたが、その斎藤でさえ全試合完投したわけではない。“幻の2番手”として全国制覇に貢献。その後、黄金時代の早大を経てプロにも進んだ塚田晃平が、現役にこだわり続けた野球人生と、野球を離れた今も持ち続ける「信念」を語った。

「長い早稲田の歴史でも僕くらいじゃないですか? 育成契約でのプロ入りは。早稲田では野球に未練がありながらも企業に進む人をたくさん見ていて、その風潮を打ち破りたくて。僕にとってはプロに進むという決断より、野球を辞める決断のほうが難しかった」

 伝統校が前代未聞の大フィーバーに沸く少し前。西東京大会の初戦、都立昭和戦で早実は8回まで2―2と大接戦を演じていた。早実は9回一死二塁からヒットエンドランを敢行。内野ゴロを相手がはじく間に二塁走者の斎藤は勝ち越しの本塁生還を果たしたが、その際にヒザを負傷してしまう。エースに代わり、ベスト8まで先発を託されたのが当時2年の塚田だった。

 初戦こそ思わぬ苦戦を強いられたが、その後は順当に勝ち進んで西東京を制覇。迎えた甲子園の初戦、鶴崎工(大分)戦で再び塚田に出番が回ってくる。13―1と大量リードで迎えた9回、8球連続ボールの2者連続四球。すかさず斎藤がマウンドに戻り、後続を断った。

「2番手といっても投げたのはたったの8球。あれで塚田はもうダメだ、使えないとなって、決勝の再試合でさえ登板の話はまったくなかった(笑い)。でも野球人生で一番の糧になっているのがあの8球。もう一度、今度こそ斎藤さんの後ろをちゃんと抑えたい。大学時代はそれだけがモチベーションでした」

 斎藤を追って進んだ早大は西武へ進んだ大石、現楽天・福井らドラ1トリオを擁するまさに黄金時代。入学後2年間はベンチ入りがかなわず、3年でベンチ入りするも登板機会は巡ってこなかった。4年時に5試合に登板し0勝、防御率9・53ながら、プロ志望届を提出。下位指名でのプロ入りさえご法度とされる暗黙の了解“早稲田ルール”を破り、育成契約で広島に入団した。

「プロに進むことに迷いは全くなかった。『早稲田から育成なんて何事だ』『考え直せ』という声もありましたが、ちょうど應武監督から岡村監督に代わる際のタイミングに乗じて(笑い)。引け目はあったけど、今の時代、プロでダメでもどうとでもなる。そんなモデルケースになりたかったのかもしれません」

 プロではわずか2年で戦力外。その後、日米の独立リーグで各1年ずつプレーを続けてから納得の上でユニホームを脱いだ。それでも短い期間で多くの人と出会い、様々な考え方に触れた。大手保険会社の営業をする今も、その経験は生きている。

「仕事はライフプランニングを通じてお客さまを守ること。生きているときと、亡くなってしまった場合、生き方のプランとリスクマネジメントを考える。それって野球選手と一緒なんです。プロ野球選手って個人事業主で、自分のキャリアをどう考え、どういうケアをして、どうプロデュースをしていくか。夢を追って志半ばで挫折したとき、リカバリーをどうするか。野球選手って高校、大学、プロとずっと誰かから選ばれ続ける人生で、逆を言うと野球を辞めたときに初めて自分で人生を決めなきゃいけない。無数に広がる選択肢から何を軸にするのか。ライフプランニングは、その判断の軸になるもの。自分の経験も生かしながら、後輩も含めてお客さまの人生をサポートしていきたい」

 無念の8球降板を経て“早大のタブー”を破ってまで現役にこだわった野球人生。プロへの挑戦が無謀でなかったことは塚田の笑顔が物語っている。

 ☆つかだ・こうへい 1989年8月24日生まれ、東京都目黒区出身。小学校3年のとき、軟式野球チーム「目黒ピータース」で野球を始める。目黒第二中を経て早実に進学。現日本ハムの斎藤とともに2年春夏と2度甲子園に出場し、春8強、夏V。早大から育成ドラフト3位で広島入団。早大から育成でのプロ入りは史上初で、17年には大竹耕太郎が育成4位でソフトバンクに入団した。13年に戦力外となり、14年に米独立リーグのスーシティー・エクスプローラーズに入団。15年から国内独立リーグ、新潟アルビレックスBCでプレー。同年オフのトライアウトを機に現役引退、現在はソニー生命保険で営業職に当たる。192センチ、89キロ。右投げ右打ち。

最終更新:10/20(日) 11:25
東スポWeb

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