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ナイキ「エアマックス 95」を日本で売り1年で44億円を稼いだ男に聞いた

11/10(日) 9:26配信

日刊ゲンダイDIGITAL

 最近人気のスニーカーの代表格といえばナイキのAIR MAX95(エアマックス95、エアマックス2)だろう。もちろん、1995年に発売されたものではなく復刻モデルだ。当時もエアマックス95は爆発的な人気で価格が高騰し、履いている人間を襲って奪う「エアマックス狩り」が起きるほど熱狂的人気だった。

 そんなエアマックス95をナイキの米国本社と個人契約して1年間で40億円以上も売った人物がいる。中谷昌文氏だ。中谷氏は近著の「ビル・ゲイツの幸せになる質問 もしも1日200円しか使えなかったら?」(日本実業出版社)で、このときの様子を次のように書いている。

<渡米先で見たマイケル・ジョーダンの超人的なジャンプカに感激し、彼が指導に来るバスケットボール教室に入門したいと思いました。

 もともと、私は中京大学体育学部の出身で、バスケットボール部副主将を務め、全日本学生選抜選手に選ばれるなどバスケが大好きだったのです。

 日本人だという理由で18回断られましたが、19回目の粘りで、ついにマイケル・ ジョーダンから直接の指導を受けることができました。

 そのときにジョーダンが履いていたのが、カラフルでスタイリッシュな「ナイキ」のシューズです。当時のアメリカでは、カラフルなシューズを選手が試合で履くことは禁止されていました。だからジョーダンは毎試合、罰金を払ってナイキを履いていたそうです。また、当時のナイキには十分なお金がなく、商品を大量に作れませんでした。そこで考えたのが、靴を「限定販売」にして売り出すことです。

 その様子を間近で見ていた私は、「これは売れるぞ!」と、ナイキのシューズの可能性を感じ取り、すぐに「日本での販売権」を獲得しました。そして迎えた1995年、ナイキのシューズ「エア・マックス」は社会現象を巻き起こしました。仕入れ値5000円のシューズが5万円、10万円という高値で爆発的に売れ、私の個個人事務所の売り上げは44億円を記録したのです。これが、私のビジネスのスタートでした。

 その後も、「音楽俳優·モデル学校の運営」「児童養護施設の運営」 「イベント企画制作会社」「映画制作」「児童クラブ」「学童保育·塾」「日本語学校」「人材派遣会社」「飲食事業」 「美容事業」などを次々と成功させていきました>

■「私は運が良かった」

 当時、中谷氏は広島県の保健体育教師だったが、意を決して渡米し、百科事典のセールスマンをやっていたそうだ。当時の様子をあらためてこう話してくれた。

「全日本学生選抜のコーチからマイケル・ジョーダンのいたシカゴ・ブルズのバスケット教室を紹介されまして、どうにかエントリーできないかいうことでなんとか19回目に入れました、そこでジョーダンの派手なシューズを見たわけです。ナイキも米国本社の社長が交代して建築家だった副社長が社長になりました。ちょうどナイキは日本にこれからスニーカーを持っていきたいと考えていて、そこで試しに日本で広めてくれないかということになったんです。エアマックスが1から2に代わるくらいの頃です。そうして私はエアマックス2と3の販売に1年間ほど携わりました」

 このエアマックス2(エアマックス95)は、アメカジブームを追い風に想像以上の人気を得ていく。

「本社からの個人輸入という形でした。仕入れ値は5000円から8000円くらいのものがメインでした。個人輸入だったので値段は自由につけていました。ネットもない時代なので店舗のないカタログ販売です。スニーカーを撮影して写真を載せたカタログを美容室に置いてもらって、フリーダイヤルで注文をとっていました。個数がなかったものですから、5万円で出したり、10万円で出したり。30万円でもほしいということもありました。2万足は売ったのではないでしょうか。個人輸入も次第に広がり、値段が上がりすぎましたため、次第にナイキジャパンは価格統制もふくめてコントロールしていきました。私は運がよかったんですね」(中谷氏)

 中谷氏はいま、エンジェル投資家、学校経営、ランドセルの寄付活動を中心にさまざまな社会貢献活動をしている。断られてもあきらめない明るさと行動力が強運を呼び寄せたのだろう。

(取材・文=平井康嗣/日刊ゲンダイ)

最終更新:11/10(日) 9:26
日刊ゲンダイDIGITAL

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