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大嘗祭はなぜ東京なのか、京都のジレンマ 遠ざかる天皇との距離と変容する「先例」

11/13(水) 10:02配信

京都新聞

 新天皇即位の主要儀式である即位の礼と大嘗祭が東京で催されている。大正、昭和は京都で行ったが、平成に続き2回連続で、京都は外された。今も京都は東京が首都である法的根拠がないことを指摘し「奠都(てんと)」にこだわる土地柄。京都の政財界は大嘗祭誘致に動いたが、共感は広がらず、「天皇の政治利用」との批判も浴びた。低下する存在感に京都はジレンマを抱えている。

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大嘗祭の京都誘致に動いた京の政財界

 天皇は東京に移っても即位の儀式は京都で行うー。1889(明治22)年、明治政府は旧皇室典範を制定し、11条に「即位ノ禮及大嘗祭(だいじょうさい)ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と定めた。維新後、京都の衰退に明治天皇は気をもんだ。伊藤博文らが尽力して盛り込んだ条文通り、大正と昭和の「即位の礼」と「大嘗祭」は京都で営まれた。
 「即位の礼は東京で盛大に挙行され、大嘗祭は京都で斎行されることが最も本質的で現実的だ」。旧皇室典範の制定から100年目を迎えた1989(平成元)年、京都で大嘗祭の実施を求める運動があった。戦後に制定された新皇室典範では、儀礼の京都開催の条文はない。京都経済界が中心となり、当時の京都商工会議所会頭・塚本幸一氏(故人)は先頭に立って政府に要望書を提出した。
 ワコール創業者の塚本氏は戦時中、多数の戦死者を出したインパール作戦の生き残り。97年設立の保守派団体「日本会議」の初代会長。せめて大嘗祭だけでも京都に―。運動には京都の学者や文化人も加わり、たびたび陳情を行った。
 だが、京都の突出した運動に国民の関心は高まらず、国会でもほとんど議論はなされなかった。90年1月、政府の「即位の礼委員会」と宮内庁「大礼委員会」は、即位の礼と大嘗祭をいずれも東京の皇居で行うと発表した。ただ、決定するまでの経過は今もベールに包まれている。

抗議電話が京都市役所に

 時は流れて、2017年。「陛下を京都の活性化に利用する気か」。天皇陛下の退位を実現する特例法が成立した4日後の6月13日、京都市役所に抗議電話が相次いだ。きっかけは前日の記者会見で、門川大作市長が「上皇の滞在や宮中行事の実施に関し、早急に国に要望したい」と述べたことだった。
 京都市と京都府、京都商工会議所などでつくる「京都の未来を考える懇話会」(未来懇)はその頃、大嘗祭を京都で開催できないか、再び検討していた。京都は当時、文化庁の誘致に成功し、リニア中央新幹線も誘致しようとしていた。世間には地域エゴにも映った。
 京都府と京都市が検討を進めると課題が浮上した。昭和の即位儀式の際、京都御苑に大嘗宮を建てた場所は仙洞御所内。今は樹木が生い茂り、造営には文化財発掘調査が必要になる可能性も指摘された。すぐ南側に富小路広場はあるが、野球などを楽しむ京都市民の憩いの場を奪うことになる。数年の準備期間では、とうてい不可能だった。
 京都商工会議所の立石義雄会頭は、門川市長の会見から8日後の記者会見で、儀式誘致を「難しい」と述べて白旗を上げた。
7月6日に未来懇が国に提言した文書は「大礼に何らかの形でお役に立ちたい」とするにとどまった。門川市長は昨年の取材に「(抗議の声に)地方創生とは全く関係なく、明治以降の京都と皇室行事の関係がここまで知られていないことに驚いた。大嘗祭を江戸時代の質素な形式に戻せば可能性はあるという識者の助言も受けたが、政教分離の原則から、規模まで口を出せなかった」とジレンマを語った。 
 戦前の「先例」を唱えるだけでは、北海道や九州の人たちからも「ぜひ京都で」と賛同するような何かが欠けていた。結局、京都では今回の即位関連行事でも平成の前例を踏襲。11月27~28日に明治天皇陵(京都市伏見区)参拝と京都御所での茶会(11月28日)開催にとどまった。

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最終更新:11/13(水) 13:59
京都新聞

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