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【Bリーグ】名古屋ダイヤモンドドルフィンズ 安藤周人 動き出した新たな夢 ~名古屋ダイヤモンドドルフィンズとともに~(2)

11/18(月) 11:51配信

バスケットボールスピリッツ

名古屋ダイヤモンドドルフィンズ 安藤周人 動き出した新たな夢 ~名古屋ダイヤモンドドルフィンズとともに~(1)より続く


フランチャイズプレーヤーとは何を持ってそう呼ぶのか。長年そのチームに在籍し、名実ともにチームの“顔”であることがその定義であるのなら、アーリーエントリーを含めても4シーズン目の安藤周人をそう呼んでいいのか。まだまだ若すぎるのではないか。そんな声もあるかもしれない。

しかも取材当日、安藤がインテンシティ株式会社(以下、インテンシティ)とマネジメント契約を締結したという発表もあった。インテンシティは馬場雄大(テキサス・レジェンズ)や安藤誓哉(アルバルク東京)とも同様の契約を結んでおり、「安藤も海外挑戦か?」と思わずにはいられなかった。

しかし本人はそれをあっさりと否定する。

「それはありませんよ。よりバスケットに専念するためにもよりよいサポートがほしいなと考えていたところに、困ったことがあればサポートしますよと言っていただけたので、お願いすることにしたんです」

名古屋ダイヤモンドドルフィンズのファンも一安心だろう。

安藤の地元・三重県四日市は名古屋から近鉄で30分ほどの距離にある。安藤にとって、名古屋は“準地元”と言ってもいい。東京近郊で4年間を過ごした安藤としては人が多すぎず、しかしある程度栄えている名古屋の街が一番好きなのだと言う。

さらに安藤の言葉は続く。

「僕はできれば同じチームでやりたいと思っています。よく周りからも言われるんです、移籍しないの? って。でも決めるのは僕自身だし、周りが何と言おうが、どんな意見が出ようがあまり気にすることはありません。やはり僕のなかで呼んでくれたチームは名古屋Dだけだと思っているので、その恩返しをしたいんです。せっかく呼んでくれたので何か……優勝は天皇杯で2回あるのかな、でもリーグ優勝は一度もないので、僕がいる間にそれを達成したい。その気持ちは今も曲げていないですね」

名古屋Dはその前身である三菱電機時代 ── 「ダイヤモンドドルフィンズ」はなおのこと、「メルコドルフィンズ」の名前さえついていない1990年、1991年に天皇杯を制している。しかしそれ以降、リーグを含めて日本の頂点には立っていない。

1990年、1991年は安藤がまだ生まれておらず、のちにフランチャイズプレーヤーとなった梶山さえもまだ三菱電機に入団していない。だからこそ大学時代の4年間、ラブコールを送り続けてくれた梶山とともに頂点に立って、喜びを心から分かち合いたい。安藤はそう考えている。

しかも安藤がつけている背番号「9」はかつて梶山が背負っていた番号でもある。彼へのリスペクトは相当に強いのかと思われたが、「最初に番号を決めるとき、9を背負うことがどういう意味なのか、わからなかったんです」と、こちらもさっくりと否定された。このあっけらかんとした純朴さ、純粋さが安藤の持ち味のひとつなのだろう。

安藤にとっての「9」は、梶山が背負っていたというより兄の背番号だった。本人は「13」をつけたかったそうだが、青山学院大時代も、名古屋Dに入ってからもすでに「13」は埋まっていて(名古屋Dではジョーダン・バチンスキーがつけていて、安藤が加入後すぐにバチンスキーは契約解除になっている)、兄と相談して「9」にしたそうだ(大学3、4年時は「24」)。

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最終更新:11/18(月) 11:51
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