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中村哲医師の死は愛するアフガニスタンへの最後の訴え。経済水準はすでに10年前に逆戻り

2019/12/5(木) 19:30配信

BUSINESS INSIDER JAPAN

12月4日の14時過ぎ、打ち合わせの最中に編集長の浜田敬子からメッセージが飛んできて、中村哲さんが銃撃されたことを知った。

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すでに国内海外問わず多くのメディアが報じているように、中村さんはアフガニスタンで40年近く医療や人道支援を続けてきた医師だ。

「命に別状ないことを祈るばかり」と編集長には返信したが、いま思えば完全な嘘だ。心の中では、助かるまいと感じていた。およそ2時間後、同僚編集者の山口佳美が「中村医師死亡」の報道を伝えてくれた。

「中村さんが死ぬ」と思ったのは直感や霊感ではない。帰国を挟んで2001年から足かけ2年をアフガニスタンやパキスタンで過ごした自分の経験と、ここ数年の同国の治安状況を頭の中で重ねたとき、銃撃事件を生きのびる老医師の姿がまったく想像できなかったからだ。

イスラム圏のテロ情報に詳しい軍事ジャーナリストの黒井文太郎さんに連絡を入れた。「アフガン政府と関係の深い外国人なら手当たり次第、くらいの感覚のヤツは向こうにいくらでもいる」と、身も蓋もない見解。しかし、まったくその通りだ。

そういう厳しい現実を最もよく知る日本人のひとりが中村さんであったし、私の勝手な推測だが、中村さんもこんな日が来るかもしれないことは覚悟していただろう。

危険と緊迫感に満ちたアフガニスタンの日常

私が初めて記者としてアフガニスタンに足を踏み入れたのは2001年。

同年9月に起き、1万人近い死傷者を出した同時多発テロ事件の報復として、アメリカを中心とする有志諸国連合はテロ首謀者のオサマ・ビン・ラディンをかくまったアフガニスタンのタリバン政権を攻撃。私が隣国パキスタンの首都イスラマバードに到着した11月半ば、タリバン政権は崩壊し、そのまま連合軍による駐留と治安維持が始まった。

先輩記者たちが向こうへの渡航を支援してくれたこともあるが、何より大きなきっかけになったのは、当時読んだインタビュー記事で中村哲さんが「日本メディアは欧米メディアに頼りすぎている」と語っていたからだ。

好奇心に満ちた、20代半ばの駆け出し記者だった自分の胸を、中村さんの言葉が撃ち抜いた。

そこから先に経験した異国での信じがたい日々を語るのは、本稿の目的ではない。ただ、あれから10数年が過ぎたいまでもフルカラーで昨日のことのように思い出せる、いくつかの光景をあげておきたい。

パキスタンとアフガニスタンの国境に近い中核都市ペシャワール北部の山村で、タリバン兵に志願する若者たちと夜を徹して語り合ったときの、彼らの燃えるようなまなざし。

国境にそびえる要害カイバル峠の検問所で、喉もとに突きつけられたカラシニコフ銃の冷たい銃口、どんなに手で押さえつけても止まらなかった両足の激しい震え。

首都カブールの澄み切った真冬の空気のなかで歯みがきをしていると、突如低空飛行でやって来た米軍ヘリの鋭い回転翼音、その直後に放たれた閃光、立ち上がる爆煙。

流暢な英語を操り、日本人を尊敬していると言って近づいてきたひとりのアフガン人。のちに私が現地で乗っていた中古車を乗り逃げして消える彼から感じた、いまにも破裂しそうな憤怒の力。

明日にも逃げ出したくなるような危険と緊張感で満たされたあの国で、中村さんは数十年もの間、感染症の治療や、枯渇した井戸の再生、灌漑用水路の整備を続けた。

それは、現地の空気をそれなりに知る私に言わせれば、立派だとか頑張ったとかの世界ではなく、奇跡だ。

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最終更新:2019/12/6(金) 7:01
BUSINESS INSIDER JAPAN

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