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戦時中の米国での日系人強制収容「後世に」 「当事者の声」アーカイブ続ける米団体

2019/12/8(日) 15:56配信

THE PAGE

 日本軍が米国ハワイ州の真珠湾を攻撃し、太平洋戦争(1941~1945年)が開戦してから12月8日で78年が経過した。「大東亜共栄圏の建設」をうたった日本軍は、当初こそ東南アジア全域から南太平洋のソロモン諸島までを支配下に置いたが、次第に戦線を後退させ、45年に敗戦する。戦争末期は東京大空襲(45年3月)、沖縄戦(同年3~6月)、広島・長崎への原爆投下(8月)など国内で多くの犠牲者が出た。他方、敵国であった米国に戦前から移り住んでいた日系人のうち十数万人が暮らしの場から引き離され、有刺鉄線などで囲まれた施設に強制収容されていたことはあまり知られていない。収容経験者らの高齢化が進む中、インタビューを通して得た当事者の「生の声」をインターネット上で無料公開し、後世に伝えようと活動している団体がある。

「ヘビの方が自由」

 「どうしても忘れられない記憶があるのです。収容所は金属製のフェンスで囲われており、フェンス際では常に銃を持った兵士が行ったり来たりしていました。ある日、私がフェンス近くへ行くと、ヘビがフェンスの下を通っているところに出くわしました。その時に感じたのです、『いつでもフェンスをくぐって外へ出られるヘビの方が私なんかよりも余程自由があるな』って。私にはそれができませんから」

 「自由というのは非常に重要なもので、私たちはそれが当たり前にあるものではないということに気づきました。自由は、ただ何でもできるということだけではなく、自由に考え、創造し、学ぶことができるということです。自由に感謝しなければならないことはたくさんあるのです」

 幼少期にカリフォルニア州の施設(Tanforan=タンフォーラン)に収容された日系三世のヘレン・ハラノ・クライストさんがインタビューに応じた際(2008年)に語った言葉の一節だ。

大統領令で隔離・収用された日系人

 19世紀末以降、職を求めてハワイや米本土に渡る日本人が多くいた。これらの人たちは一世と呼ばれ、米国の市民権を得られなかった。一方、現地で誕生した二世や三世は市民権が与えられており、他の米国人らと違わぬ扱いを受けるはずだった。

 しかし、1941年12月8日に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃したのを契機に太平洋戦争がはじまると状況は一変。3か月後の42年2月にはフランクリン・ルーズベルト米大統領の行政命令により軍に日系人排除の権限が与えられ、強制隔離が始まった。11万人とも12万人とも言われる日系人が西海岸に10数か所設置された「センター」と呼ばれる場所に集められ、その後米国内に10か所あった収容所に連れていかれた。この間、財産を失った人も多かったという。

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最終更新:2019/12/8(日) 17:57
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