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槙原寛己氏が語る、知られざる大府高校への入学の決め手。愛知4強を選ばなかったわけ

2019/12/12(木) 12:00配信

高校野球ドットコム

入学時は甲子園に行けるなんて思いもよらなかった

 愛知県の高校野球では中京と東邦の2強となっていたが、そこへ伝統の享栄と比較的新しい勢力としての名古屋電気が私学4強と捉えられていた。この頃にはそこに愛知高も加わってきていた。そんな時代にあって、大府は愛知県の公立校としては1964(昭和39)年夏に甲子園出場を果たしている。
 これは、愛知県の公立校としては1957(昭和32)年の津島商工(現津島北)以来の出場ということになった。そんなこともあって、県内の公立校としては、もっとも甲子園の可能性のある存在という評価ではあった。

―― 実は、槙原さんが入学される15年前に、大府は甲子園出場を果たしていたのですが、そんなことも意識はされていたのですか。

 それも、ボクはよく知らなかったんですよ。ただ、いろんな人の話からも、『甲子園へ行ける可能性はあるぞ』みたいなことは言われていました。ただ、自分としては現実にはなかなか難しいだろうなと言うのが正直な気持ちでした。

―― ところが、現実には2年生の夏に甲子園出場を果たすことになります。槙原さん自身は大府のユニフォームを着てベンチ入りしたのはいつからだったのですか。

 1年の夏から、ボクと捕手(馬場茂=筑波大を経て、のちに大府高校監督。現西尾東校長)のバッテリーだけは入っていました。

―― 入学したすぐの、高校野球の印象としてはどうでしたか。

 入学した当初は、(地元では強豪の)大府中の連中がいて上手いなぁとは思っていましたが、ブルペンで投げてみたら、負けてないなぁと思えるようにはなりました。それで、すぐにある程度はやれるんじゃないかとは思いました。

―― 当時の、大府はどんな練習だったんでしょうか。

 定時制があったんで、そんなに遅くまでは練習やれなかったんですよ。だから、自分としては普通じゃないかなと思っています。

 槙原さんインタビュー第2回は、高校2年夏と高校3年春の甲子園出場の記憶に迫ります。

手束 仁

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最終更新:2019/12/12(木) 12:00
高校野球ドットコム

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