ここから本文です

「まだ避難なんてやってるの」“ヘリ窓”落ちた小学校の葛藤 正解ない答え求めた2年

2019/12/13(金) 5:01配信

沖縄タイムス

[私たちの「日常」普天間第二小 ヘリ窓落下2年]

 のどかに野焼きをする石垣島で2年前、宮良小学校校長(当時)の桃原修さん(60)は普天間第二小(沖縄県宜野湾市)の事故を知った。翌春の異動先に第二小を希望していたが、米軍ヘリの窓が落ちた以上、数年間は大変になる。基地と隣り合わせの環境は変わらないだろうし、誹謗(ひぼう)中傷されるかもしれない。

【写真】小学校のグラウンドに落下した米軍ヘリの窓

 それでも希望を変えなかった。「僕が行きます。子どもたちと先生方を守らないといけない」

 ◆ボクが逃げるわけにはいかん

 第二小には、誰よりも縁があると思った。自身が普天間小4年の時に第二小ができ、一部の同級生を送り出した。

 母の加寿子さん(94)は教師として、第二小で定年退職を迎えた。父の故正賢さんは、橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使が米軍普天間飛行場の全面返還を発表した1996年当時の宜野湾市長。

 「おやじは政治家、おふくろは教員として基地の存在に胸を痛めた。僕が逃げるわけにはいかんだろう」

 ◆避難を強いられる子どもたち

 だが、大変さは想像以上だった。事故後、沖縄防衛局は校舎の屋上に監視員、地上に誘導員を計7人置き、運動場の上空を米軍機が飛ぶたびに子どもたちを避難させていた。

 「もう嫌だ」。体育で1000メートル走のタイムを計っていた6年生は、あと1周で終わるという時にやり直しになり、桃原さんに訴えた。

 別の子は避難する理由を聞いてきた。危ないからだと答えれば「じゃあ先生、ヘリを飛ばさなければいいさ」と言われそうで言葉が見つからなかった。

 赴任から3カ月が過ぎた昨年7月。桃原さんは職員会議で、監視員や誘導員を外す提案をした。誰が責任を持って避難指示を出すのか、保護者に「子どもを危険にさらすんですか」と言われないか―。重苦しい雰囲気の中、「夏休みの間、各自もう一回考えてみてくれませんか」と引き取った。

 ◆正解なんてない、それでも…

 運動場の両隅に鉄筋コンクリート製の「シェルター」が完成したのを機に、教師らは自ら避難指示を出そうと決めた。

 事故から1年間で678回に達した避難回数は、監視員と誘導員を置かなくなった昨年10月から半年間で20回程度に減った。「普通の授業を受けさせてあげたい」との思いが、数字ににじむ。

 だが桃原さんは、宜野湾で生まれ育った先輩に「いつまで避難なんてやってるの」と笑われたことがある。幼少期、米軍基地の中に秘密基地を作って遊んだ世代からすれば、今更構えすぎだとこっけいに映る。

 一方、80歳前後の元教師から「子どもたちをこんな危ない中で学ばせるなんて」と叱られたこともある。

 体育教師だった桃原さんは、体力だけでなく耐力が必要な時代だと感じている。「正解なんてない。それでも、答えを出し続けないといけないから」

 ◇ ◇

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)所属のCH53E大型輸送ヘリが普天間第二小の運動場に窓を落下させてから13日で2年。「普二っ子」と教員に心境を聞いた。(中部報道部・平島夏実)

最終更新:2019/12/13(金) 8:50
沖縄タイムス

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事