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109年の歴史に幕「宇高航路」瀬戸大橋開通後30年存続 なぜいま「休止やむなし」なのか

2019/12/14(土) 6:07配信

乗りものニュース

瀬戸大橋開通後も「3社競争・24時間体制」だった宇高航路

 宇野港(岡山県玉野市)と高松港(高松市)を結ぶ四国急行フェリーの「宇高航路」が、2019年12月15日(日)の運航をもって休止されます。瀬戸大橋の開通から約30年、一時は24時間体制で運航されていたフェリーは、いまや1日5往復に激減し、静かに最後を迎えようとしています。なぜ瀬戸大橋開通後も30年の長きにわたって運航を保ち、いまその役割を終えようとしているのでしょうか。

【写真】かつてあった「宇高うどんフェリー」とは

 宇高航路そのものの開設は、109年前にさかのぼります。1910(明治43)年、現在のJR宇野線の開通にともない国が開設し、1988(昭和63)年の瀬戸大橋開通まで、本州と四国を結ぶ「鉄道連絡船」としての役割を担いました。かつては多くの特急列車などが宇野駅に乗り入れ、船に連絡し、また高松駅からの列車に連絡していたのです。船から列車の座席を確保するために乗客が繰り広げた「高松ダッシュ」、あるいはその反対の「宇野ダッシュ」は、四国の旅の名物イベントでもありました。

 旧国鉄の連絡船に並行する民間航路のひとつとして1956(昭和31)年に開設されたのが、現在の四国急行フェリーの航路です。1988(昭和63)年に瀬戸大橋が開通し、本州と四国が橋で結ばれた後も、重要な交通手段であり続けました。

 国鉄からJRへ引き継がれた連絡船は廃止されますが、その後も民間のフェリーによる競合は続き、最盛期には3社(四国フェリー〈のちに四国急行フェリー〉、日通フェリー〈のちに本四フェリー〉、宇高国道フェリー)がそれぞれ20分から30分間隔、24時間体制で運航していました。高松港は3社の乗り場がそれぞれ巨大な電飾看板などで飾られ、種々のアナウンスや誘導の声が飛び交い、静まり返る時間帯がないほど慌ただしい場所だったのです。

「瀬戸大橋経由だとコスト大幅増」 航路が共存できた理由

 所要時間の面で圧倒的に有利な瀬戸大橋があるにもかかわらず、フェリーが盛況を保ち続けていた、大きな要因のひとつは「価格」です。瀬戸大橋の開通当時は自動車、旅客とも、フェリーと比べてコストに大きな差がありました。

●鉄道(岡山~高松)
・瀬戸大橋経由のJR運賃:1260円(1996年からプラス230円)
・JR(岡山~宇野)とフェリー(宇野~高松):940円(JR560円、フェリー380円)

●自動車(普通車の場合)
・瀬戸大橋(瀬戸中央道)早島IC~坂出IC(岡山県早島町~香川県坂出市):6300円
・フェリー 宇野~高松:各社とも4000円前後

 3社が競合するフェリーは、物流企業などが運賃の値下げ要請をかけやすいこともあり、トラックも急ぐもの以外は宇高航路への依存が続きました。たとえば高松市に本社を構え、クレーン車で世界第2位のシェアをもつ重機メーカーのタダノは、速度制限などの関係で瀬戸大橋を使えないクレーン車などの建設車両を、宇高航路経由で世界へ出荷してきました。同社に限らず、地元経済界にとってフェリーは物流を支える重要な交通手段であり、四国運輸局はフェリーがなかった場合、全体の物流コストが年間約370億円増えると試算したこともあります。

 また、高頻度運航のフェリーで結ばれた玉野市と高松市の関係は、同じ県の街をしのぐほど密接でした。玉野市から大企業などの支店が多い高松市へ、あるいは高松市から造船所の多い玉野市への船通勤も多く見られ、夜には高松港に近い「フェリー通り」で、時間を気にせず遅くまで飲み、宇野港に帰る人たちも多くいたそうです。学生も同様で、船で通学する生徒は「船通(ふねつう)」「フェリー通」と呼ばれました。

 このほか、宇高航路のフェリーはJRの鉄道代替輸送としての役割も担っています。瀬戸大橋を通る列車が強風の際にしばしば運休するため、地元の人は天気予報しだいで、最初から鉄道を避けてフェリーを選択することもありました。

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最終更新:2019/12/14(土) 8:29
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