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かつて東京の「胃袋」を支えた行商人たちがいた 消えゆく彼らの記憶と痕跡を想う

2019/12/15(日) 7:30配信

アーバン ライフ メトロ

鉄道の登場で広がった行商人の行動範囲

 日々、私たちが口にしている食べ物は、当然ながら誰かが作り、運んでいます。東京は多くの食料を千葉県や埼玉県などの隣接県に依存しているため、それらの農家なしで生活は成り立ちません。

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 千葉県や埼玉県、茨城県の農村部が生産する野菜が東京に供給されるようになったのは、大正に入った頃から。その一因は、各地に鉄道が開業したことです。まだ鉄道網が発達していなかった明治期は、東京の都心部にも田畑や家畜を飼育する牧草地が広がっていました。

 しかし、東京は次第に都市化し、次々と耕作地や牧草地は消失。当然ながら、東京都心部から農家の数は減ったわけですが、その一方で東京の人口は右肩上がりに増加していきます。

 東京で暮らす人々の胃袋は、主に千葉県・埼玉県・茨城県の農家が満たすことになります。これらの地域の農業従事者が、列車に乗って採れたての野菜や果物、鶏卵を東京まで販売しにきたのです。

 それまでも、野菜などを売り歩く行商はありました。明治期の行商がそれまでの行商と大きく異なるのは、鉄道という文明の利器が登場したことで行商人の行動範囲が一気に広がったことです。

 特に、東京と千葉・茨城方面を結ぶ常磐線や総武線、成田線、私鉄では京成線が開業したことは農家の販路を大きく切り開くことになりました。

 野菜行商で得られる売り上げは、農家にとっても貴重な現金収入です。そうしたことを理由に、農村では行商が盛んになりました。また、行商が大きく税収を増やすことから、地元の自治体も行商を奨励しました。

 大正末頃には、多くの行商人が列車に乗って東京を目指すようになります。そのため、早朝の列車は行商人で混雑するようになったのです。

常磐線の電化にともない、規制された行商人

 時代が昭和に移ると、東京では列車で通勤というライフスタイルが生まれます。通勤のサラリーマンと野菜を積んだ行商人が混乗することでトラブルも発生するようになり、鉄道当局は無用のトラブルを回避するために行商人の扱いに苦慮することになりました。

 とはいえ当時の行商人は人数も多く、また長距離客のために鉄道当局にとって上客です。通勤客ばかりに便宜を図れば、鉄道当局の経済的な損失は大きなものが予想されます。そうした事情もあり、鉄道当局は行商人を粗雑に扱うことはできませんでした。

 しかし、1935(昭和10)年に総武線、1936年に常磐線の一部区間が電化されると行商人を取り巻く環境が一変。電化によって列車の運行本数は一気に増え、それに伴い通勤需要が急速に拡大したのです。

 こうした状況の変化から、鉄道当局は行商人の規制を強めていきます。鉄道当局は行商人が持ち込める荷物の総量や時間帯を指定し、混雑の緩和を図ります。また、行商人は東京都心部へ向かうために山手線などに乗り換えるのが一般的でしたが、乗り換えの際は上野駅を使うことを義務づけました。

 戦火が激しくなった1940年前後になると、政府は段階的に食料を配給制へと切り替えていきます。そのため、自由に野菜などを売り歩く行商も厳しく取り締まられるようになりました。

 そして、千葉県は1943年に行商を全面的に禁止します。これにより組合などによる組織的な行商は姿を消しましたが、風呂敷に包んで野菜を運ぶという脱法的な方法で極秘に行商は続けられていたようです。

 戦後、政府によって青果物の流通は統制されました。そのため、行商は公に再開できません。行商人たちは戦前期と同様に極秘に行商を続けました。

 1949(昭和24)年に統制が解除されると、総武線や常磐線、京成線は行商人で溢れます。行商人が一回で運ぶ荷物の総量は約60kgにも及びます。人によっては、1日に2往復・3往復する猛者もいました。

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最終更新:2019/12/15(日) 10:05
アーバン ライフ メトロ

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