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激動の時代に新たな市場を開拓したフェラーリ│歴史に残るエンジンを保つ

1/13(月) 21:22配信

octane.jp

これは、記事「フェラーリの中でもとびきり稀少な1台!│創業者エンツォ・フェラーリのビジョンを今に伝える」の続きです。

激動の時代に新たな市場を開拓したフェラーリ│歴史に残るエンジンを保つ(写真6点)

ピニン・ファリーナは、このあとフェラーリのボディを独占的に任されることになる。ティーポ501には、ピニン・ファリーナ製のクローズドボディを架装したベルリネッタが2台だけ存在する。シャシーナンバーは0422MDと0452MDで、揃って1954年9月のツール・ド・フランス・オートモビールに出走した。ここに紹介するフレンチレーシングブルーが鮮やかな1 台は0422MD で、マッチングナンバーの1985cc、170bhpのティーポ110エンジンを搭載する。
 
この車のフォリオ・ディ・モンタージョ(仕様書)によれば、0422MDは1954年6月4日にフランキーニという技術者の監督の下で完成た。その後、オイル漏れを修理したあと、カサブランカの代理店、コジェマティSAのアンドレ・ヴァノンの仲介で、最初のオーナーであるマリオ・デュスタリッツに届けられた。デュスタリッツはモロッコに住むフランス人で、ツール・ド・フランスの出走経験があった。さっそく車両登録をして、3092 MA 24(MAは1956年までのフランス領モロッコを表すMarocから)のナンバープレートを取得すると、その年のツール・ド・フランス出走に向けて、フロントウィンドウのウォッシャーと、4個のドライビングライトに備えたバッテリーを取り付けた。
 
苛酷なツール・ド・フランスは1954年が4回目の開催で、9月3日にニースをスタートし、9日後に再びニースでフィニッシュする日程だった。500 モンディアルは、量産車とGTのカテゴリーであるクラスBにエントリーし、233のカーナンバーを付けた。盗難防止のため、鍵を複数取り付けてあったという。オーナーのデュスタリッツは経験豊富なベネズエラ人ドライバーのリノ・パジェンと組んだが、6000kmにおよぶレースを走り切ることはできなかった。出走した他の3台の500モンディアル(いずれもピニン・ファリーナ製で、スパイダー2台とベルリネッタの0452MD)もリタイアに終わった。優勝は、2.5ℓのゴルディーニT 15Sで出走したフランス人ペア、ジャック・ポレ/ウベール・ゴーチエだった。
 
2日目にル・マン・ステージを走行するデュスタリッツの0422MDを捉えたモノクロ写真が残っている。もう1台のベルリネッタを従えて走る姿だ。おそらくこれが2台を同時に見る最後の機会となった。レース終了後に別のドラマが待っていたからだ。なぜなら0422MDはフランスの税関で差し押さえられてしまったからだ。詳細は不明だが、デュスタリッツの支払いが滞り、コジェマティSAのアンドレ・ヴァノンが強硬措置に出たと考えられる。

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最終更新:1/13(月) 21:22
octane.jp

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