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伝説の「10・8決戦」の翌日、敗軍の将・高木守道監督が向かった先とは…当時の谷木恭平外野守備コーチが明かす

1/18(土) 13:49配信

中日スポーツ

 1994(平成6)年10月9日早朝、私と守道さんは、岐阜県内のゴルフ場にいた。まだオープン前のコース、2人で独占状態だった。

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 この日が何を意味するか、熱烈の中日ファンならご存じだろう。あの歴史的な10・8の翌日。悔しくて守道さんも眠れなかったのだろう。それは私も同じ。筆頭の子分と自任する私のところに、午前5時すぎ「ゴルフへ行こう」という守道さんの誘いがあり。二つ返事で私は乗った。

 コースで野球の話は一切出なかったが、私の願いはただひとつ。すでに辞任表明はしていたが、翌年に雪辱してほしいということ。外野守備走塁コーチだった私は身を引く覚悟だった。

 その願いは、その夜、かなえられた。ゴルフ後、高木邸で食事となったが、娘さんがひと言「谷木さんは札幌に帰るの?」と私に聞いた時だった。間髪入れず、守道さんは「帰るわけがないじゃないか」とピシャリ。事実上の留任宣言。この言葉を聞いて、どれだけ安心したか。また、守道さんと野球ができる。その喜びでいっぱいだった。

 残念ながら雪辱はできなかったが、高木守道という方に出合い、最大限にかわいがっていただいたのが最大の思い出。亡くなったなんて、今もウソと信じていない。「1番高木が塁に出て、2番谷木が送りバント~」。こう歌われたのは、私の一生の誇りだ。(元中日ドラゴンズ外野手、コーチ)

最終更新:1/18(土) 15:51
中日スポーツ

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