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高校時代、控え投手で終わった黒田博樹(元広島)が大学以降から素質を開花できた理由

1/21(火) 15:40配信

高校野球ドットコム

プロで活躍する選手は、たいてい、高校時代に主力選手として活躍を見せている。
エースや4番、主将といったチームの核となる役割を担っているパターンがほとんどだ。しかし高校時代は全く実績がなく、大学、社会人で花開いてプロ入りするというサクセス・ストーリーを私たちに見せてくれる選手がまれにいる。さらにMLBで活躍するとなれば、それはもう夢の様な話だ。

 そんな夢の様な野球人生を送っているのが日米通算203勝を挙げた黒田 博樹氏だ。

 黒田投手は上宮高校時代、ほとんど登板実績がなかったのはご存知だろうか。
高校時代は控え投手で、登板が全くなかった選手が、その後大学で開花し、メジャーリーガーになり、さらに一流の実績を残したというのは黒田投手か上原 浩治氏ぐらいだろう。

 今回は黒田氏の高校時代の監督・田中 秀昌監督(現近畿大硬式野球部監督)に黒田氏の人間性を物語る高校時代のエピソードを紹介していただいた。

唯一の実績は2年秋の近畿大会 控え投手で終わった3年間

 元南海ホークスなどでプレーした黒田 一博氏の息子である黒田 博樹。
中学生の時は父親が監督を務めるボーイズリーグ「オール住之江」でプレーしていた。そんな黒田は元木 大介(元巨人)など名だたる選手が甲子園で躍動し、1989年選抜で準優勝した上宮に入学を決める。

 しかし、この世代の上宮は錚々たる選手が揃っていた。
まず黒田の1学年上は、日本ハム、阪神でプレーした中村 豊、MLBのロイヤルズでプレーし、主に千葉ロッテマリーンズのセットアッパーで活躍した薮田 安彦選手がおり、同級生には西浦 克拓選手(元日本ハム)、筒井 壮選手(元阪神)、社会人野球でも活躍した溝下 進崇選手と名だたる逸材が多かった。そんな布陣に、黒田が入り込む余地はなかった。

 入学当時はコーチで、黒田の2年秋から監督に就任した田中監督は入学当初は「長身だったけど、ほっそりとしていて練習についていけるか、不安でした」と語るほどだった。だが田中監督が目を惹いたのは練習に取り組む姿勢と学校生活の姿勢の良さであった。

「僕は結構走らせていたけど、クロ(黒田)は自分から走ったり、投げ込みをするなど、人一倍努力ができる姿勢がありました。僕は同時に教師をやっていたのですが、クロの授業に取り組む姿勢も野球部員の中では誰よりも良かったですね」
と当時を振り返る。

 新チームになっても黒田の登板機会はなかなか訪れなかった。エース格として投げていたのは、西浦と溝下の2人。西浦はプロ入り後は野手として活躍するが、当時は145キロ前後の速球とスライダーを投げる本格派右腕。溝下は安定感抜群でしっかりとゲームを作れて、度胸溢れる左腕。
黒田は長身から勢いある直球とスライダーを武器にする投手であったが、黒田のスピードを上回るのが西浦で、安定感においては溝下の方が上だった。さらに西浦、溝下ともに野手としての能力も高く、必然と起用するのは西浦か溝下になっていた。

 そんな中でも、黒田が輝いた時期が1991年秋である。当時、直球の制球力に苦しんでいた黒田だったが、近畿大会を前に調子を上げていく。
ストレートのキレ、コントロールも安定感があり、これは投げさせられると判断した田中監督は黒田を近畿大会準々決勝の日高戦でリリーフ登板させる。すると黒田は無失点の好投を見せ、さらに準決勝のPL学園戦でも好継投。決勝進出を決めると、決勝では天理に敗れたとはいえ、この試合でも途中登板で好投を見せ、自信を掴んだ大会でもあった。

 しかし近畿大会準優勝ということで、センバツに近づき、甲子園デビューも間近と思われた矢先、学校内で不祥事があり、選抜推薦を辞退することになってしまった。当時の上宮の選手からすれば、じくじたる思いがあったかもしれない。
黒田の甲子園出場は幻に終わった。

 秋の近畿大会では上り調子だった黒田だったが、「そこから調子を落としてしまったようだった」と田中監督が語るように、最後の夏は西浦と溝下の2人が中心となり、黒田は目立った活躍もできないまま、夏を終えた。
かくして高校時代は控え投手で終わった黒田だったが、田中監督は黒田の取り組む姿勢を高く評価していた。
「野球、私生活においてもとにかく一生懸命、真面目に取り組める選手でした。そういうところが大学時代に素質を開花させたのかなと思います」と振り返る。

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最終更新:1/21(火) 15:40
高校野球ドットコム

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