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三菱重工業の創業の地「長崎」から造船の灯が消える日

1/22(水) 9:26配信

日刊ゲンダイDIGITAL

【企業深層研究】三菱重工業(上)

 三菱の企業城下町、長崎に驚きが広がった。三菱重工業が創業の地である長崎市内に持つ2つの造船所のうち、主力の香焼工場を、造船で国内3位の大島造船所(長崎県西海市)に売却すると発表したからだ。

 長崎造船所の起源はペリー来航の翌年、徳川幕府が開設した、オランダから購入した軍艦の修理工場・長崎鎔鉄所に遡る。明治維新後は官営長崎造船局。1884(明治17)年、三菱の創業者、岩崎弥太郎が長崎造船局を借り受け、長崎造船所と命名し造船業を本格的に始めた。三菱重工はこの年を創業年としている。長崎造船所の造船と、同時期に買収した高島炭鉱(長崎市)の石炭が、三菱財閥を形成する両輪となった。

 第2次世界大戦中には世界最大の戦艦「武蔵」を建造した場所だ。香焼工場を含めて聖域視されてきたが、造船事業の赤字が続くなか、主力工場の売却に踏み切った。約600人の従業員は転籍や配置転換となる。

 香焼工場は1972年、本工場に近隣して開設された。1200トンの超大型クレーンを1基、600トンのクレーンを2基持ち、ドックの長さは1キロと国内最大級の規模を誇る。「造船王国ニッポン」のトップランナーであった。

 日本の造船業は中国、韓国の安値攻勢で、シェアを失っていった。中韓に比べて人件費が高い日本では価格競争力のある船を造り続けることが難しくなった。

 三菱重工の造船事業は撤退の歴史である。貨物運搬船など採算が悪い商船から、まず撤退。その後は高い技術力が生きる大型客船に軸足を移した。世界でも大型客船を建造できるのは三菱重工など数社に限られる。

 2002年10月、建造中の「ダイヤモンド・プリンセス」が火災を起こした。海上試運転を目前にした超大型客船が36時間にわたり延焼し、およそ4割が焼失した。日本の造船史に残る大事故であった。

 その後、大型客船の受注は途絶えていたが、11年にクルーズ客船最大手の米カーニバル傘下のアイーダ・クルーズから2隻を受注した。

 長崎造船所香焼工場で「洋上のホテル」と呼ばれる豪華客船は建造された。12万5000総トン、長さ300メートル、幅37・6メートル、3300人乗りで、三菱重工にとって約10年ぶりとなる大型客船である。

 だが、アイーダ・クルーズから度重なる設計や資材変更を求められ、1番船の納入は3度も延期された。大型船2隻の受注額は1000億円程度だったが、それを上回る2540億円の特別損失を計上する羽目に陥った。

 16年10月、大型客船事業からの撤退を表明した。機械・鉄構部門出身の宮永俊一社長(現会長)が会見で漏らした言葉が印象的だった。

「造船は伝統もあってプライドも高く、それゆえの閉鎖性もあった」

 祖業である長船(ながせん、地元ではこう呼ぶ)のプライドの高さが、抜本的な改革を遅らせる盾になったというわけだ。

 香焼工場は、大型客船の建造から撤退し、付加価値の高い液化天然ガス(LNG)と液化石油ガス(LPG)運搬船に特化した。これも、中国や韓国勢の攻勢により仕事がなくなり、LNG船は19年9月を最後に生産が途絶えた。


■歴史的価値が注目され世界遺産に登録

 長崎造船所は香焼工場の売却後は、防衛省向けの護衛艦を造る本工場だけとなる。

 造船の衰退が早まるなか、皮肉にも、その歴史的価値がスポットライトを浴びた。15年、世界遺産に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が登録された。

 長崎造船所で、ひときわ存在感を放つのが「ジャイアント・カンチレバークレーン」。スコットランド製で、1909(明治42)年、長崎造船所が輸入した日本初の電動クレーンである。100年以上もクレーンのモーターのうなる音が、三方を山に囲まれたすり鉢状の湾内に響き渡った。

 クレーンの音が聞こえなくなったとき、造船の灯が消える。その日は近い。

 ICT(情報通信技術)や航空機関連など新産業の育成に力を入れ、事業構造の大転換を図る。“スリーダイヤ”の輝きを、再び取り戻すことができるのだろうか。

(有森隆/ジャーナリスト)

最終更新:1/22(水) 9:26
日刊ゲンダイDIGITAL

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