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18歳の柴田勲さんは優れた作詞家でもあった 2軍生活の悲哀、憂鬱…「多摩川ブルース」に込めた思い

1/25(土) 14:00配信

スポーツ報知

 俊足の1番打者として巨人のV9に貢献した“赤い手袋”こと柴田勲さん(75)が昨年末、CD「多摩川ブルース」を自主制作した。18歳だった巨人入団1年目の1962年、多摩川グラウンドや合宿所での2軍生活の悲哀を当時自ら作詞したもので、長らく2軍選手の間で歌い継がれてきた。八番までの歌詞に込めた思いを聞いた。(加藤 弘士)

 柴田さんにとっては“卒業制作”と言えるかもしれない。王貞治さんから継承し、5年間務めた「巨人軍OB会長」の座。昨年12月7日のOB会総会で中畑清さんに託すことが決まった。出席者にお土産として配布されたのが、この日のために昨秋レコーディングした「多摩川ブルース」のCDだ。非売品とあって、すぐさまマニアの間で話題になった。

 「OB会長をやめるという節目にね、記念にCDにしたんだよ。18歳で作ったんだから生意気だよね。ルーキーが今、こんな歌を作ったら、殺されるよ(笑い)」

 歌い出しがとにかく不穏だ。

人里離れた多摩川に

野球の地獄があろうとは―

 当時流行していた、練馬の少年鑑別所を歌った「ネリカンブルース」の替え歌として、巨人の2軍選手に広まり、愛唱された。

 「多摩川の合宿所で、ファームの選手がどんな気持ちでいるのかを描いたのが半分、あと半分は寮長の武宮(敏明)さんに対する嫌がらせかな(笑い)」

 柴田さんは横浜・本牧出身。法政二ではエースとして夏春の甲子園連覇を成し遂げたスターだった。ドラフト制度がない時代、争奪戦の末に投手として巨人入団。1年目の62年はオープン戦で2勝を挙げると、高卒ルーキーながら開幕カードの阪神戦で第2戦に先発を託された。

 「びっくりしたよね。でも川上監督に『開幕カードに行くぞ』と言われた時にはもう、肩の調子は良くなかった。でも高卒1年目で『肩が痛いです』って、言えないよな。1軍の投手コーチは別所毅彦さんでね。オープン戦の調子が良かったから『プロ野球の1年間は長いから、投げ込んで肩の筋肉をつけよう。1日に300球、投げ込もう』と言われたんですよ。でも300球投げたら、肩が上がらなくなっちゃって」

 阪神打線にKOされると、川上監督から「ファームで肩を治せ」と通告された。痛みが引かないまま、2か月が過ぎた。次の指令は予期せぬものだった。「打者に転向したらどうか」―。

 「『巨人のエースになるぞ』と入団して、開幕2戦目に投げた投手が6月には打者転向を言い渡されるんだからね(笑い)。『嫌です』と言って、7月にも1軍の中日戦に先発したんだけど、高校時代の球威が戻らない。『もうダメだな』とショックでね。8月には川上さんに『ハイ、分かりました』と伝えたよ」

 昭和15年に建てられた合宿所生活も苦難の連続だった。

 「合宿所は汚かった。木造の2階建てでほこりだらけ。冬は寒いし、すきま風が入る。僕の時には新人が19人も入ったんですよ。僕は『八時半の男』の宮田征典さんと同部屋でね。四畳半に2人だよ。で、裸電球が1個だけつるされていて」

 “鬼寮長”とは、いさかいが絶えなかった。

 「開幕2戦目で打たれてファームに落ちた時、ゴミ当番があってね。合宿所のゴミを自転車の後ろに乗せて、多摩川グラウンドに持って行って燃やすんだけど、ゴミを持ってファンの前に出たくないから、僕は断った。『嫌です』と。そしたら武宮さんから『分かった。じゃあ1か月外出禁止、1週間掃除当番にするけど、それでいいのか?』と聞かれたので『それをやります』とね。18歳の若造が文句を言うわけだから、武宮さんも面白くないわけだ」

 河川敷のグラウンドは今では想像できないぐらい、厳しい環境だった。

 「室内なんてないから、雨が降ったら丸子橋の下でキャッチボールをやったりね。今はファームでも指導者が十数人いるけど、当時は2人だけ。中尾碩志(ひろし)さんが2軍監督兼投手コーチ。武宮さんが寮長兼打撃コーチ兼守備走塁コーチ。だからファームの試合は選手がコーチスボックスに立っていたよ」

 四番の歌詞にはこうある。

武ちゃんつりちゃん許してね

これから真面目にやりますと

誓った心も上の空

またも抜け出す渋谷の灯

 武ちゃんとは武宮寮長。「つりちゃん」とは中尾2軍監督の愛称だという。

 「門限のチェックが終わった後、タクシーを拾って遊びに行ったり。渋谷よりも自由が丘が多かった。でも、自由が丘だと語呂が悪いからね(笑い)」

 禍(わざわい)を転じて福となす―。早期の打者転向が奏功し、2年目は1軍のスタメンに定着して43盗塁。「高卒は合宿所に最低3年」のルールを超え、柴田さんは多摩川を去った。

 「2年弱で合宿所を出たんです。『お前は出てけ』と武宮さんに追い出された(笑い)。でも後から、武宮さんが『柴田や堀内みたいに、逆らうぐらいの方がうまくなっている』と話していたみたいだね」

 八番の歌詞が泣かせる。

一年二年は夢の内

だんだん消えてく同期生

今年は俺もあぶないと

夜も眠れぬオフシーズン―

 「僕が入った頃は、巨人の選手の平均在籍年数が3年3か月と言われていた。ベテランも含めての平均だよ。ドラフトがなくて自由に選手を取れた時代だから、モノにならないと思われたら、もうクビ。みんな田舎から、夢を持って出てきたのにね…」

 プロ野球は夢の世界。しかし、光があれば陰もある。2軍の激しい生存競争は、今も変わらない。18歳の不安、哀しみ、憂鬱(ゆううつ)が込められた「多摩川ブルース」の世界観は今もなお、色あせることがない。

 ◆多摩川グラウンドは98年に閉場

 川崎市新丸子の「多摩川寮」は戦前の1940年に完成。老朽化したことから67年1月、よみうりランド内に移転し、鉄筋コンクリートの近代的な寮になった。91年8月には現在の場所に移転した。多摩川グラウンドは55年6月に開場。85年10月、よみうりランド内にジャイアンツ球場が開場。多摩川グラウンドは98年3月をもって閉場となり、川上哲治、千葉茂らOBを中心に紅白戦などの「さよなら多摩川イベント」が開催された。

 ◆柴田 勲(しばた・いさお)1944年2月8日、横浜市生まれ。75歳。法政二時代、エース兼主力打者として60年夏、61年春の甲子園で連続優勝し、62年に巨人入り。開幕2戦目先発という異例のデビューも、6試合で0勝2敗、防御率9・82。外野手に転向後は日本初の本格的スイッチヒッターとして活躍した。俊足の1番打者として盗塁王を6度獲得。巨人のV9に貢献した。通算成績は2208試合に出場。2018安打、708打点、194本塁打。打率2割6分7厘。通算盗塁数579は現在もセ・リーグ記録。



多摩川ブルース

作詞/柴田勲



人里離れた多摩川に

野球の地獄があろうとは

夢にも知らないシャバの人

知らなきゃ俺らが教えましょう



マイクロバスに乗せられて

ゆらりゆられて行く先は

その名も高き多摩川の

読売巨人の練習場



朝は八時に起こされて

廊下の掃除や拭き掃除

三度の食事も二度一度

挙句は食うなと怒鳴られる



武ちゃんつりちゃん許してね

これから真面目にやりますと

誓った心も上の空

またも抜け出す渋谷の灯



身から出ましたサビだけど

鬼の寮長に怒られて

竹刀で殴られ意見され

連れて行かれる練習場



バカだのホケだの怒鳴られて

イヤイヤやる気もないけれど

これも給料の内ですと

しぶしぶ出かけるイースタン



合宿の窓より外見れば

丸子のネオンの悩ましさ

あの娘が手まねで呼んでるが

出るに出られぬ籠の鳥



一年二年は夢の内

だんだん消えてく同期生

今年は俺もあぶないと

夜も眠れぬオフシーズン

夜も眠れぬオフシーズン

報知新聞社

最終更新:1/25(土) 14:38
スポーツ報知

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