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数々のレスラーを輩出したプロレス養成学校「闘龍門」が21年の時を経て同窓会開催

1/27(月) 16:46配信

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凱旋帰国のラ・ケブラーダで観客のハートを鷲掴みにした浅井嘉浩

 1999年1月31日は、日本のプロレス界にとって大きな歴史的意味をもたらした。いまから21年前、東京・後楽園ホールにて「闘龍門(とうりゅうもん)」が日本逆上陸興行をおこなったのだ。闘龍門とは、ウルティモ・ドラゴンがメキシコで設立したプロレスラー養成学校のこと。そこで学んだ生徒たちがレスラーデビューし、大挙来日。ウルティモプロデュースによる大会は既成概念にとらわれないド派手な演出と個性豊かなレスラーたちにより、とてつもないインパクトを残してみせた。あれからちょうど21年となる2020年1月31日、ところも同じ東京・後楽園ホールにて、“同窓会興行”「闘龍門、再会」が開催される。

【写真】笑みを見せるウルティモ・ドラゴン。日本プロレス界に大きな影響を与えた

 闘龍門のルーツを辿れば、そこは浅井嘉浩というひとりの男に辿り着く。身体の小ささから新日本プロレスの入門テストに不合格となった浅井はレスラーになる夢をあきらめきれず、1987年5月11日、単身メキシコに渡った。入国からわずか2日後、浅井は幸運にもリングに上がるチャンスに恵まれる。これがデビュー戦となり、彼は一気に人気ルチャドールへの道を歩むことになったのだ。

 1990年3月にはユニバーサルプロレス旗揚げ戦で凱旋帰国。場外へのムーンサルトアタック、ラ・ケブラーダを初公開し、ファンの度肝を抜くとユニバの若きエースとして八面六臂の活躍を見せた。91年10月には、メキシコでマスクマンのウルティモ・ドラゴンに変身。ウルティモとしての日本デビューは同年12月、SWSの東京ドーム大会だった。国内では獣神サンダー・ライガー、ザ・グレート・サスケらとジュニア黄金時代を築き、海外でもメキシコはもちろんアメリカWCWにも進出。このときの海外経験がレスリングスクール設立への大きなヒントとなったのだ。

 スクールの開設が明らかになったのは1996年8月のことだった。闘龍門の名称とロゴが発表され、一期生の募集が始まった。とはいえ、団体に入門し団体の道場で修業するという従来の日本のシステムからすれば、団体所有ではないレスラー養成学校、しかも異国の地という点でも常識外れ。とても成功するとは思えなかった。それでもかつての浅井と同じくレスラーになる夢を捨てきれない若者たちが海を渡り、言葉の通じない地で練習に勤しんだ。そして97年5月11日、メキシコのアレナ・ナウカルパンにてウルティモデビュー10周年を兼ねた第1回自主興行を開催、一期生4人がデビューを飾ったのだ。

 その後も練習生たちが集まり、トレーニングの成果を自主興行で披露、日本に先乗りした選手もいれば、アメリカのリングに上がる選手もいた。逆上陸までに合計7回の自主興行が開催され、選手も3期生までがデビューした。突然変異のようにも見える逆上陸だが、そこに至るまではウルティモの綿密な計算と選手たちの努力が積み重ねられていたのである。

 そして迎えた逆上陸興行は、後楽園ホールに超満員の観衆を動員。以後、闘龍門は日本でのシリーズも開催するようになり、生徒たちの受け皿として団体・闘龍門JAPANが始動したのである。もちろん、選手たちも日本とメキシコを往来しながら次々とデビューしていった。

 しかし、校長のウルティモは当時、試合をおこなっていない。逆上陸から遡る1998年7月、アメリカでの医療ミスにより左腕の神経を断裂、無期限欠場の決断をしいられたのだ。が、この災いがかえってプロデュース力を磨いたのだとウルティモ自身は振り返る。個人のキャラクター付けはもちろん、ユニット闘争のアイデア、さらには世代ごとに異なるプロレススタイルを標榜するプロジェクト(闘龍門JAPAN、T2P、闘龍門X)を起ち上げた。この発想がのちの日本プロレス界にも大きな影響を与えることとなる。

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最終更新:1/27(月) 17:00
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