ここから本文です

「1日1000スイング」の指示を忠実に実行したのは金本だけ【名伯楽 作る・育てる・生かす】

2/4(火) 9:26配信

日刊ゲンダイDIGITAL

【名伯楽「作る・育てる・生かす」】#19

 同い年の緒方孝市にライバル心を燃やしていた金本知憲も思い出深い。

 東北福祉大から1991年のドラフト4位で入団。1、2年目は二軍暮らしが続いた。広島は二軍の遠征費用を抑えるため、野手4、5人を残留させていた。金本は遠征メンバーに入れず、留守番となったことがある。当時、ウエスタン・リーグの日程は、大阪で阪神、近鉄と戦い、1週間ほどで帰広することが多かった。二軍打撃コーチだった私は、実際にやるかどうか半信半疑で、こう言い残し、遠征に向かった。

「残留組は1日1000スイングがノルマだぞ」

 金本はそれを忠実に実行し、毎日1000回振っていたそうだ。残留組の練習に付き添った川端順二軍投手コーチから後になって聞いた話だ。金本個人に言ったわけではない。残留組の全選手に向けた言葉だったが、守ったのは金本だけだったという。

 大卒なのに……という反骨精神に火がついたのだろう。1年目から一軍で49試合に出場、専大からドラフト1位入団で同期の町田公二郎にもライバル心を燃やしていた。

■「モグラ殺し」

 二軍でくすぶっていた金本は非力だったため、「転がして足を生かせ」と言うコーチもいた。外野守備では送球を地面に叩きつけてしまうことが多く、「モグラ殺し」という、うれしくない異名も頂戴した。それでも、走力はあり、身体能力も高かった。打撃は内角への対応はまだまだだったが、逆方向の左中間へ鋭い打球が飛ばせた。化ける要素はあった。

 当初は内角球を打つ際、右肘や右肩が上がってしまっていたため、グリップを意識的に膝元に落とすことで、脇を締めようとしたのだ。

 悔しさをバネにした。自分の体力的な弱点を克服するため、シーズン中もオフも、広島市内にあるジム「アスリート」に通い、ウエートトレーニングに力を入れた。筋力を蓄えることで、車でいうエンジンの排気量が上がっていった。パワーがつき、打球に力強さが加わった。金本のトレーニング法が後輩の新井貴浩や鈴木誠也らに引き継がれ、カープの伝統になった。先駆者として金本が残した功績といえる。

 94年に三村敏之監督(享年61)が就任すると、レギュラーに定着した。金本の体の強さや試合を休まない根性を買っていた。三村監督には「ケース・バイ・ケース」というカープのチームに貢献するための打撃を叩き込まれた。阪神にFA移籍し、星野仙一監督に「阪神の4番なんだから自由に打て」と言われても、根底には「チーム打撃」という考えが染みついているように見えた。金本は三村監督がつくり上げたといっても過言ではない。

 その金本と師弟関係だったのが新井である。

(内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)

最終更新:2/4(火) 9:26
日刊ゲンダイDIGITAL

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事

Yahoo! JAPAN 特設ページ