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切断された手足「学生さーん、それ煮てくれよ」 動員された17歳少女、想像していた戦争と「違う」

2/4(火) 5:10配信

沖縄タイムス

■戦世生きて くらしの記録(2) 島袋淑子さん(下)

 沖縄師範学校女子部の生徒だった島袋淑子(よしこ)さん(92)=本部町出身、当時17歳=は1945年3月23日、看護要員として沖縄陸軍病院壕(南風原町)に動員された。「すぐに学校に戻れる」。そう思っていた。

【写真】空襲を受けた日本海軍の機雷敷設艦「常磐」

 ◆手足の切断手術を手伝う

 4月1日に米軍が沖縄本島に上陸。戦闘が激化するにつれ、瀕死(ひんし)の兵士が続々と運ばれてきた。米軍を一網打尽にしているはずなのに、敵の攻撃はますます激しくなる。想像していた戦争と「違う」と感じ始めた。

 負傷兵の看護や食料運搬、死体埋葬に駆けずりまわる日々になった。命令を受けて移動した糸数壕(南城市)では、手足の切断手術を手伝った。麻酔注射が不足すると、患者に薬品を嗅がせて失神状態のまま手術が始まった。

 精神を病んだのか、切り落とされた手足がかごに入っているのを見て「学生さーん、それを煮てくれよ」と言う人もいた。

 友達も次々と犠牲になった。撤退命令を受けて移った伊原第一外科壕(糸満市)では6月17日、壕の入り口近くに大型爆弾が落とされた。がたがた震えながら淑子さんが駆け付けると、水くみも伝令もいつも一緒だった仲良しのウタ子さんのおなかから内臓が飛び出していた。

 「しっかりして。今軍医が見てくれるからね、大丈夫だよ」。そう励ますと、ウタ子さんは苦しみながら「私はもう助からないから、他の人を先にして」。最後の言葉は「天皇陛下万歳」だった。

 ◆「殺してください」と懇願

 翌18日の晩、淑子さんたち学徒隊に解散命令が下り、米軍が包囲する戦場に放り出された。死ぬなら「即死で」と願った。動員の日にリュックに入れた辞典と日記帳は、手元にもうなかった。

 逃げ惑う中、米軍の機銃掃射の弾が当たり、歩けなくなった。敵に捕まれば、恐ろしい目に遭う。「自決」を望み、そばにいた日本兵に「殺してください」と頼みもした。それでも、生き延びた。

 淑子さんら「ひめゆり学徒隊」240人のうち、犠牲者は136人に上る。重傷で歩けない友達を壕に残してしまったこと。行方が分からないままの友達のこと。考えると申し訳なくて、戦後も長らく体験を語れなかった。

 まさか、友達や先生が死んでいくなんて。まさか勉強ができなくなるなんて。「ただラジオから流れるものを信じていました。戦争は遠い所にあるものだと思っていました」。気付いた時には、日常全てが奪われていた。(社会部・榮門琴音)

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最終更新:2/4(火) 5:10
沖縄タイムス

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