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旧日本海軍 知られざるもう1隻の「大和」 地図に残るその偉大な測量の業績

2/10(月) 10:30配信

乗りものニュース

海底地形に名を残す初代「大和」とは?

「大和堆(やまとたい)」とは、日本海中央に位置し、日本の排他的経済水域(EEZ)にある水深の浅い部分のことで、漁業資源が豊富な海域です。2020年現在の昨今では、北朝鮮の漁船による不法操業が問題になっている現場としても、広くその名が知られるようになりました。

【画像】日本海に広がる「大和堆」と「武蔵堆」の位置

 ところでこの「大和堆」という名称は、日本海軍所属だった軍艦「大和」が由来です。しかし、あの戦艦「大和」のことではありません。太平洋戦争を戦った超ド級戦艦「大和」は、日本海軍の同名艦としては2代目で、そして大和堆の由来は初代「大和」のほうなのです。

 初代「大和」は1887(明治20)年11月16日に、神戸にあった小野浜造船所で竣工しました。姉妹艦として1888(明治21)年2月9日に、「武蔵」が就役しています。

 ネームシップは初代「葛城」で、「大和」は2番艦、「武蔵」は3番艦でした。ご存知の通り「大和」と「武蔵」は昭和の時代に、2代目同士が再び姉妹艦となります。また「大和」初代艦長は、半年間だけでしたが、当時中佐だったあの東郷平八郎という巡り合わせでした。

「大和」は当時としては一般的な3本マストの、汽帆兼用(帆走と蒸気機関による航行が可能)で鉄骨木皮製である、「スループ」と呼ばれるカテゴリーの軍艦でした。ドイツの軍事メーカー、クルップ製の170mm単装砲2基、120mm単装砲5基を装備し、1894(明治27)年の日清戦争では、清国の沿岸砲台と砲撃戦を行っています。

 1898(明治31)年には海防艦に類別され、1902(明治35)年以降は第一線から退いて海防艦のまま測量任務に就いていましたが、1904(明治37)年からの日露戦争時には旧式化していながらも第三艦隊に配属されました。やがて1922(大正11)年4月1日、「武蔵」とともに、正式に測量艦となります。

測量艦「大和」の地味ながら重要な活動

 戦艦「大和」に対して測量艦「大和」というのは、とても地味に聞こえます。しかし、いまも昔も、海底の地形を把握しておくことは海軍にとって大変重要で、測量という行為には政治的な意味も大きく関わっています。初代「大和」も戦艦「大和」に劣らない、国家の重要任務を担ったのです。

 当時はソナーのような音響測量機器などもなく、測量は陸地の定点を基準にし、陸地が見えないところでは位置が確定した点の海面にブイを浮かべて、三角測量を繰り返していきます。海の深さを測るのは、おもりを付けたロープを垂らし海底までの距離を測るという、地道な作業の繰り返しでした。同時に海底の地質を調べるために、おもり袋には牛脂などを詰めて砂を付着させ、回収し分析するという作業も並行して進められたそうです。こうして、各国は独自に海図を作成し、そのデーターは国防に係わる重要な国家機密になります。

 海軍力の整備は、ただ艦艇の数を増やせばよいというものではありません。艦隊が行動する海域の正確な情報が無ければ、艦は水深の浅い海域に入り込んで行動不能、最悪座礁ということにもなりかねません。潜水艦が海中を活動する時代に入ると、測量の重要性はさらに高まったことは言うまでもありません。

 また測量を行うということは、地面に国旗を立てるのと同じで、権益を主張するという意味もあります。

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最終更新:2/10(月) 20:35
乗りものニュース

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