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野村克也さん、同乗した車中で話してくれた沙知代さんとのなれそめ…女性記者に気遣いも

2/11(火) 14:20配信

スポーツ報知

 南海の強打の捕手として65年には戦後初の3冠王に輝き、南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野球評論家の野村克也氏が11日死去した。84歳だった。

【写真】ヤクルト・高津監督が恩師の死去に涙

 野村氏の名言はたくさん語られているので、ここでは別の一面から「野村監督」のご冥福をお祈りしたいと思う。

 1990年オフにヤクルトの監督に就任した野村氏。91年に3位、92年にセ・リーグ制覇、93年にはリーグ優勝から日本一に輝いた。その93年のシーズン終了後に、ヤクルトの2人目の担当記者となった。リーグ戦から取材していた先輩記者が椎間板ヘルニアになり、急きょ、シーズンを取材していない記者がハワイV旅行に同行することに。あいさつに伺うと「ラッキーやな」とニヤリと笑ったのが最初だった。

 ハワイ島のホテルには、沙知代夫人はもちろん、次男のケニー野村さんの家族らも宿泊。プールでは“貴重な”沙知代さんのビキニ姿や、慣れない様子で孫の手を引く野村監督を見かけた。野村家は男の子なら「克」、女の子なら「沙」を名前に入れるのが通例のようだった。この時に見かけた女の子が現在、大リーグ・エンゼルスの球団職員となっている野村沙亜也さんだったようだ。沙亜也さんには「野村克也」の「也」の字も入っている。

 野村監督との思い出で印象に残るのは、宮崎・西都市で行われた94年2月の春季キャンプ。キャンプ地入りのため、宮崎空港に降り立った時、監督に呼び止められ、担当記者で1人だけ監督を迎えに来たハイヤーに同乗した。

 今と違って当時はプロ野球の取材現場に女性記者は少なく、スポーツ新聞のヤクルト担当では唯一の女性記者だった。ずうずうしく後部座席の監督の隣に乗りこんだ。

 「新しく担当になった女性記者はいったいどれくらい野球のことをわかってるんだろう?」「どんなヤツなんだ?」という“調査”なのか、こちらから何を話せばいいのか…とドキドキしたが、車中の野村監督はこちらが“取材”するスキが全くないくらい、一方的に語った。

 話し始めたのは、沙知代夫人とのなれそめ。南海の選手時代、遠征で来た東京の中華料理店で、店主から紹介されたのがきっかけだったこと、その時のときの沙知代さんの様子や会話をくわしく話してくれた。何かと誤解されがちな沙知代さんに、変な先入観を持たないようにという配慮だったのだろうか。

 当時、シングルマザーとして2人の男の子を育てていた沙知代さん。「ずいぶんしっかりした人だなあって思ったのが最初よ」と話した。今思えば、もっと突っ込んでいろいろ聞けばよかったのだが「そうなんですか」「へええ」と相づちを打つのが精いっぱい。もったいなかったなあと今でも思う。

 キャンプ中もシーズン中も、担当記者に囲まれて常に何かを話していた野村監督。雑談の中で突然、重要な話をすることもあって、担当記者が周りを離れられない監督だった。そんな中で、「あんた、彼氏はおるんか?」と聞かれ、「はい、一応…」と答えると、「ふーん、だからスキがないんやな」と、今の時代に会社で言ったら“セクハラ”になるような質問をされたこともあった。もちろん、野村監督に言われてもそうは感じなかったが…。

 雨の中、車から降りる監督にカラフルな色の傘を差し出すと「えらい派手な色の傘やな」と言われたこともあった。その傘は今も自宅にあり、それを見るたびに野村監督のことを思い出す。たわいもない“イジり”は、少ない女性記者が溶け込みやすいようにという気遣いだったのかもしれない。(元ヤクルト担当・高根 紋子)

報知新聞社

最終更新:2/12(水) 8:19
スポーツ報知

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