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「この腕切ってくれ」と死んでいった父 全てを奪った戦争の生き証人 反戦へ強い思い

2/13(木) 5:10配信

沖縄タイムス

[戦世生きて くらしの記録](8) うるま市出身 横田チヨ子さん (下)

 父の震える手が丸められた日の丸旗を差し出した。包まれていたのは、当時16歳だった横田チヨ子さん(91)=宜野湾市=の賞状。1944年7月、サイパンで日本軍の組織的戦闘が終わって間もない頃だ。

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 父は大量出血で意識が薄れる中、上空を飛ぶ米軍機を指さし言葉を絞り出した。「賞状を持って生きて帰れ。ちゃんと勉強してれば、あの飛行機にも乗れる」。そう言って間もなく息を引き取った。

 ◆命を絶った父

 44年6月15日、米軍はサイパンに上陸した。日本軍は圧倒的な米軍の銃爆撃に後退するほかなく、北へ追い詰められた多くの住民らが「集団自決(強制集団死)」で命を落とした。

 家族と隠れた北部のアダン林で、砲弾の破片で左腕をけがした父が言った。「この腕を切ってくれんか。そしたら楽になる」。横田さんにカミソリを見せた。

 「嫌だ」。断ると、父は近くにいた男性巡査を呼んで腕を切らせ、死んでいった。決意は固かった。

 生きて虜囚の辱めを受けず。「皆そう教え込まれたから、父は自分が足手まといになると思って命を絶った」

 前夜には、兄が砲弾を受けて即死した。片言の日本語で投降を呼び掛ける米兵の声を無視し、義姉と海に身を投げようとしたことも。逃げ惑い、捕虜になったのは米軍上陸から数カ月後だった。

 ◆同じ思いをさせたくない

 幼い頃、看護師になるのが夢で、勉強も人一倍頑張った。それなのに戦が全てを暗転させた。46年、生き残った母や弟らと沖縄に引き揚げ、芋を売って稼ぐ生活を送った。「サイパンではおいしい物を食べられたのに」。何度も悔し涙を流した。

 戦後も50回以上、サイパンへ足を運んだ。父と兄の遺骨はなく、慰霊祭にも数え切れないほど参加した。

 今、新基地建設が進む名護市辺野古や、建設現場に土砂を積み出す名護市安和の桟橋にほぼ毎週通う。感情が高ぶり、抗議市民を排除する機動隊員に説教したこともある。

 卒寿を超えてもなお、戦世を生きた一人として反戦を訴える横田さん。心を突き動かすものは何か。

 「子どもたちに、私と同じ思いをさせてはいけないでしょ。だから戦争につながるものは反対なの」。ただ、それだけの気持ちだ。

(社会部・新垣卓也)

最終更新:2/13(木) 5:10
沖縄タイムス

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