ここから本文です

ソフト宇津木監督の過去「打てないなら中国に帰れ」応援団からヤジ

2/14(金) 12:28配信

西日本スポーツ

 東京五輪で日本選手団の先陣を切って登場するソフトボール女子日本代表の宇津木麗華監督は、北京五輪以来となる金メダル獲得の期待を担う中で令和を迎えた。

【写真】宇津木妙子元監督と始球式を務める宇津木麗華現監督

 生まれ故郷の中国から昭和に来日。選手や指導者として平成を駆けた。一度は五輪から除外された期間の苦しさを知るからこそ、選手には日本代表として五輪で戦う意味や価値を問い続ける。東京五輪を「競技人生の集大成」と言い切る宇津木監督が思いを語った。

   ◇   ◇   ◇

 チームプレーとは、と尋ねられることがある。助けたり、助けられたりも間違いではない。何よりも欠かせないのは「共感」ではないか。自分と真摯(しんし)に向き合い、責任を果たそうと努める。妥協をしない姿勢や生きざまを見て人は初めて心を動かされ、仲間を支えようとする。「ソフトボールはチームだけれど個、人間力が問われる」。代表監督を長く務め、日本ソフトボール協会副会長などの要職に就く宇津木妙子さんの教えを胸に刻み、座標軸にしている。

 「宇津木姓」の私は養女ではなく、親戚関係にもない。妙子さんのプレーに憧れ、中国名の任彦麗(にん・えんり)で来日した私は妙子さんが指揮を執っていた日立高崎(現ビックカメラ高崎)に加入。人としての成長も引き出していただいた。指導は厳しかった。160センチに満たない小柄な体からは想像できない体力の持ち主。鉄人だった。当時の練習場にあった4本の大木のうち、1本が風で倒された。強烈な「上州の空っ風」でも絶対に吹っ飛ばされない。冗談ではなく、真剣に思った。1分間に40本ぐらい打っていた、と形容される速射砲のようなノックは普通ではない速さだった。打球に飛び込んで起き上がろうとすると、もう次の打球が飛んできた。

 来日6年目の1993年、私は不振時に応援団から「打てないのなら中国に帰れ!」とやじられた。寮の近くで独りで悲しんでいたのを、妙子さんは心配して探しに来てくれた。会社に出向いて「温かく見守ってあげて」と伝えるなどかばってくれた。真心に応えようと、その年のオフの納会で私は「来年三冠王を取れなかったら中国に帰る」と誓った。当然意地もあった。有言実行で手にした94年の三冠王は忘れ難い。

1/2ページ

最終更新:2/14(金) 12:28
西日本スポーツ

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事

Yahoo! JAPAN 特設ページ