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「炎は瞬く間に東本願寺、東寺に」天明の大火、オランダ人が詳細な記録

2/14(金) 18:12配信

京都新聞

 京都で最大規模の火災とされる江戸期の「天明の大火」について、オランダ人が詳細な記録を残していた。国際日本文化研究センター(京都市西京区)のフレデリック・クレインス准教授(日欧交流史)が、オランダ・ハーグ国立文書館に眠っていた長崎の商館長による日記をたどり、新著で明らかにした。記録は、被害の概要や市井の混乱から、街のうわさまで書き留め、大災害に遭った京の人々の動きを詳しく伝える。「現代を生きる参考にしてほしい」とクレインス准教授は語る。

【写真】天明の大火の炎が迫る中、避難する人々

■「炎は瞬く間に五条大橋を越え、東本願寺、東寺に及んだ」 「居眠りしていた女中の袖、空から三つの火の玉」

 この火災について書き記したのはオランダ東インド会社から長崎の商館に赴任したファン・レーデという商館長。歴代の商館長は将軍に敬意を表するため、江戸に参府することになっていた。その道中で災害に出くわした。商館長は本社への報告や引き継ぎのために、業務で日記を書くことが義務づけられており、災害についても詳しく記していた。
 「外国人の視点でルポのように書いている」。クレインス准教授は、商館長日記の中で大災害に言及した部分に焦点を当て、新著「オランダ商館長が見た江戸の災害」(講談社現代新書)にまとめた。
 1788(天明8)年の冬に発生した天明の大火は、鴨川東側の「団栗辻子(ずし)」(現在の宮川筋)付近から出火したことから「団栗焼け」とも呼ばれる。ファン・レーデは江戸に向かう途中の兵庫で、火災の知らせを得る。伝聞情報ではあるが、内容はかなり詳しい。
 <風は東から強く吹いていて、炎は瞬く間に前述の川および五条大橋を越えて、西方向に東本願寺および東寺という大きな寺院にまで及んだ。(中略)町の中心部は灰と化してしまった(中略)その後、この恐ろしい火災は、三日も続けて猛威をふるった後に二月一日つまり西暦の三月八日に鎮火した>
 その後、大阪で焼失範囲を示す地図を見たファン・レーデは衝撃をこう記す。
 <四千もの道路があり、日本帝国および商業の中心であり、もっとも裕福な商人たちが住んでいる、この大きくて、華麗で、繁栄している人口稠密な商業都市はほぼ完全に消え去っている。(中略)このような破壊はどんな国の歴史にも例が見当たらない>
 「京都はファン・レーデにとって特別な町だった」とクレインス准教授。ファン・レーデは以前にも長崎に赴任しており、その際に訪れた京都で「複数の非常に素晴らしい寺院を訪問した」と思いをつづっているという。
 <すべてがまだひじょうに混乱した状況であり、親族や同居人がどこへ避難したか誰もわからないからである。現在に至って、父が息子を探し、息子が父を、そして母が子どもを探している>
 巷に伝わる火災原因についても触れている。<ある人によると、火鉢の傍で居眠りしていた女中の着物の袖に火がついたことが原因であるという。また、ほかの人によると、空から三つの火の玉が落ちて来て、消火不能の火事を引き起こしたという>。クレインス准教授は「混乱の中で迷信が入り乱れている様子が伝わってくる」と話す。
 一行は京都で泊まる予定の宿も焼け、伏見経由で江戸に到着。数カ月後、帰路に現在の円山公園裏手にあった安養寺に泊まる。ファン・レーデは焼けた京都を展望台からその目で見つめ、復興の早さに驚く。<かくも短い期間でこれだけ無数の小屋を造るのもまた信じられないことである>
 新著では天明の大火のほか、江戸を焼いた明暦の大火や元禄地震、長崎での地震などを取り上げた。クレインス准教授は「商館長たちは、何度も何度も立ち上がる日本人に心を動かされている。大災害が相次ぐ今だからこそ、見つめ直すきっかけになれば」と語る。
 クレインス准教授の同僚で、「天災から日本史を読みなおす」(中公新書)の著書もある磯田道史准教授の詳細な解説が各章ごとに付けられている。

最終更新:2/14(金) 20:42
京都新聞

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