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タイガー服部ヒストリー【4】「長州力と天龍源一郎の米国修業時代」…2・19後楽園で引退記念試合

2/15(土) 12:00配信

スポーツ報知

◆2・19後楽園で引退記念大会

 新日本プロレスのタイガー服部レフェリー(74)が19日の後楽園ホール大会でおよそ44年に及ぶレフェリー生活から引退する。明大レスリング部時代に全日本選手権優勝など輝かしい実績を残し、1970年代に米国でプロレス界に飛び込んだ。服部氏自身によると76年にレフェリーとしてのキャリアがスタート。以来、全日本、新日本、ジャパンプロレスでレフェリーを務め、90年代に入るとメインレフェリーとして新日本の黄金時代を支えてきた。新日本は、長年の功績をたたえ「引退記念大会」を19日に後楽園で開催。記念の興行を前に「WEB報知」では服部レフェリーを独占インタビュー。「タイガー服部ヒストリー」と題し19日の引退興行当日まで連載します。第4回目は「長州力、天龍源一郎の米国修業時代」。

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◆「馬場さんには良くしてもらった」

 服部正男がレフェリーとしてのキャリアをスタートさせた1976年ごろ、フロリダにはジャイアント馬場が率いる全日本プロレスのレスラーが遠征に来ていた。

 「馬場さんも当時、外国人のブッキングの仕事もあってフロリダによく来てたよ。選手も日本から送ってきて、大熊(元司)さん、マシオ駒さん、ミスター林さんとかいろんな人が来てね。馬場さんには、すごく良くしてもらったよ」

 馬場が送り込んだ選手の中に大相撲を引退して全日本に入団したばかりの天龍源一郎がいた。天龍は中学2年で大相撲の二所ノ関部屋に入門し65年夏場所で初土俵を踏んだ。74年初場所には前頭筆頭まで番付を上げたが、部屋の後継者問題の影響で76年秋場所を最後に大相撲を引退しプロレスラーに転向した。馬場は、ちょんまげが残ったままの天龍をプロレスラーとして修業させるため、フロリダへ送り込んだのだ。

◆すぐに意気投合した「吉田光雄」

 「馬場さんから“今度、お相撲さんを送るから服部君、頼むね”って言われてね。どういう人なのか分からなかったんだけど、それで来たのが天龍さんだった。だけど、その時の天龍さんは、プロレスの世界では子供で何も知らなかったよ。何もできなかったからね。だって、相撲で受け身の上手いヤツはいいって言われないけど、プロレスで受け身を取れないとケガするからね。相撲で前頭筆頭までいったプライドがあったと思うんだけど、プロレスを覚えようとしてもの凄い苦労していたし本当に努力してたよ。あれは、今、思い出しても偉いよ」

 服部は、努力する天龍からプロレスの奥深さを教えられたという。

 「プロレスラーでいいレスラーってオレに言わせれば、顔を見たら分かるよ。逆にダメなヤツも顔を見たら分かる。いくら教えてもうまくならないヤツはならないしね。やっぱり天性ってあるんだよ。だけど、それだけじゃなくて努力もあるんだよね。それを教えられたのが天龍さんだった」

 76年秋に天龍が修業に来る前にフロリダに入ったのが長州力だった。長州は、専大時代にレスリングでミュンヘン五輪に出場。73年12月に鳴り物入りで新日本プロレスに入団した。74年8月8日に本名の「吉田光雄」のリングネームでデビュー戦を行い、すぐに欧州へ武者修業に出た。75年から米国へ転戦しフロリダへ入った。服部は、この時、長州と初めて出会った。

 「あいつは専修、オレは明治でレスリング部だったから、先輩、同級生、後輩とか共通の知り合いが多くて、そんな話をしていたら仲良くなったんだよ。そのころにオレはあいつを「光雄」って呼んで、あいつはオレを「正男」って呼ぶようになって今もそれは変わらないんだよね。だけど、あのころ、あいつは“日本に帰りたくない”って言って、帰らないでカナダへ行ったりしてたよ」

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最終更新:2/15(土) 15:00
スポーツ報知

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