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ノムさんが赤星憲広さんに謝罪したワケ 生涯一野村番記者が明かします【竹下陽二コラム】

2/18(火) 10:55配信

中日スポーツ

 生涯一野村番記者を自認する私であるが、実は、昨年は6回ぐらいしか会っていない。評論家ノムさんが球場に現れる日を狙い打ちして、私もさりげないふりして球場に足を運ぶ。「ところで、お前、なにしとんのや?」とノムさんが怪訝そうに尋ねると、私は「極秘の取材がありまして」とはぐらかした。おかしな男だなと思われたかもしれない。

【写真】バットを持ったファンに“襲撃”されるノムさん

 私の狙いは、ノムさんと野球の話をすることもさることながら、その生き様を見ておきたかったのである。84歳になっておぼつかない足取りで球場に足を運び続ける姿が、いつも怠け心に負けてしまう私には刺激的であった。試合前、東京ドームの食堂で難しい顔で両チームのスタメンをスコアブックに書き込んでいると、ノムさんは私のスコアブックをのぞき込んで「お前のその姿、全然、似合わんな。ふふふ」といたずらっぽく笑った。図星を突かれた私は「やはり、そうですか?」とスコアブックを閉じて、コーヒーを飲みながらたわいない世間話に花を咲かせた。それが、至極のひとときであった。

 東京ドームの関係者用食堂では評論家や報道陣が行き交い、様々な人間模様が展開される。顔見知りの記者が「カントク、お元気ですか?」と声をかける。これに、ノムさんは「もう、そろそろ、(あの世から)お迎えが来るで。ふふふ」とブラックジョークで答える。現役引退し、評論家となった教え子も入り代わり立ち代わりやってくる。その日、ノムさんの顔色が変わったのは、赤星憲広さんがテーブルにあいさつに来た時だった。昨年のレギュラーシーズンも終盤に差しかかった頃の話である。

 ノムさん「おい、赤星、オレ、お前に謝らないかんと思うてたんや。悪いことしたかなと思うてたんや」

 赤星さん「???」

 ノムさん「いやな。オレがお前をプロに誘ったばっかりに大変な思いをさせちゃったかなあと、ずっと、思うてたんや」

 赤星さん「何言ってるんですか?監督。大感謝です。監督に人生、変えていただいたと思ってます!」

 ノムさん「そうか…。そう思ってくれてるんなら。良かったわ。お前はもうユニホームを着ないのか? 体が大丈夫なら、指導者として現場に戻った方がエエで。指導者を経験すると、人間の幅が広がる」

 私はひたすら気配を消して2人のやりとりを見守った。テレビカメラが回っているわけでもない。そこは、誰も入り込めない空間であった。素のノムさんと素の赤星さん。ほんの2、3分の突然の「謝罪劇」だった。

 言うまでもなく、赤星さんは2000年の阪神のドラフト4位。打撃が非力でプロから見向きもされなかったが、「9回の代走で使える」と当時、阪神監督ノムさんの鶴の一声で指名。ノムさんは2001年オフに3年連続最下位とサッチー騒動の責任をとって辞任したが、赤星さんはプロ1年目から5年連続盗塁王に輝き、阪神のスターに。しかし、体を張ったハッスルプレーがアダとなり、脊髄を損傷。無理をすれば、最悪、命にかかわると医師に指摘され、2009年に9年のプロ生活に別れを告げた。

 最後はボロボロになって、志半ばでユニホームを脱いだ赤星さん。JR東日本のサラリーマンのままで安定した生活を過ごせたかもしれない。オレはアイツを不幸にしたのか?ノムさんは晩年、自問自答し続けたのかもしれない。しかし、命を削りながら太く短く生きた赤星さんは野球人として充実した幸せな9年間だったはずである。

 「野村野球」とは「人情野球」と見つけたり。私はずっと思ってきた。毒舌の裏にいつも優しさがあった。そして、それは、私が目撃した、ノムさんが見せた教え子への最後の「優しさ」「愛情」だったような気がする。赤星さんとの会話を終えたノムさんは、どこか胸のつかえが下りたような、安心した表情を浮かべた。あの顔が今でも忘れられない―。

最終更新:2/18(火) 16:57
中日スポーツ

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