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【ラグリパWest】大西先生、お疲れさまでした。 平田政喜&橋本俊治(京都産業大OB)

2/27(木) 9:14配信

ラグビーリパブリック(ラグビーマガジン)

 平田政喜と橋本俊治。
 2人は京都産業大がもっとも強い時代に籍を置いた。学生日本一に手が届きかける。

 この春、ラグビー部を率いた大西健が引退する。教授職は70歳定年。監督職は教え子で2人の後輩でもある伊藤鐘史に譲った。

 大西が指導を始めたのは1973年。47年の歳月が流れた。平田は言う。
「先生には人生の基礎を教えてもらいました。ひとつのことを突き詰めていく。そんな生き方を先生から学ばせてもらいました」

 愛称は名前の「しゅんじ」も続く。
「先生には感謝しかありません。今、僕があるのは先生のお蔭です」

 同級生2人が入学したのは1997年4月。出身高校は大阪の布施工(現布施工科)。平田はNO8、俊治はSHだった。

 3年時の全国大会は76回。決勝戦は啓光学園(現常翔啓光)が西陵商(現西陵)に25-26と1点差で惜敗する。布施工はその啓光学園に府予選決勝で18-22と敗れた。チームは全国優勝のレベルにあった。

 2人の肩書は国体の選抜チームであるオール大阪と高校日本代表候補。しかし、入学後、その猛練習に気持ちは萎える。
「あんなにすごいとは知りませんでした」
 俊治は振り返る。

 大学ではそのはしりであろう朝練習が1時間半ほどあった。ウエイト中心。アームカールで使うバーベルは30キロ。俊治のサイズは165センチ、55キロだった。
「朝ごはんの時、おはしを持つ手がずっと震えていました」
 毎日のグラウンド練習は夕方から3時間。FWはずっとスクラムを組み続ける。押されれば、インゴールまで走り、また組む。

 春は北方の雲ケ畑まで往復20キロの山道を走った。折り返し地点に大西が立っている。
「まだ楽でした。半日で終わりますから」
 それは1時間35分の設定タイムを切れた者のみ。30秒遅れるごとに、グラウンド横にあるスタンドの上り下りが1本ついた。

 2人で逃げる算段をする。俊治は夜中に寮を抜け出し、公衆電話の受話器を握りしめる。
「オヤジに大学は出とけ、と怒られました」
 平田は自身の家庭環境を思い返した。
「僕は母子家庭でした。母親に学費を出してもらっていましたから」

 秋の戦績で忍耐は少し浮かばれる。
 3年ぶり3回目となる関西リーグ制覇。第34回大学選手権では部の最高である4強に入った。初優勝する関東学院大に38-46。8点差は、この大会での関東学院大の試合、そして京産大の7回の選手権4強入りの内で、もっとも競ったものになる。

 平田は新人ながら正位置を勝ち取り、この試合も先発している。182センチ、75キロの体には速さと強さが宿っていた。
 京産大の主将はFB大畑大介。神戸製鋼で日本代表キャップを58に積み上げる。

 誤算はスクラムがいなされたこと。
 当時、左PRが内に入る京産大に対し、関東学院大はトイメンの右PRも同じ内に向けて組んできた。横に流れ、安定しない。

「ウチをよく研究していたと思います」
 平田はこの試合で右足を骨折する。
「前半30分ほどで退場しました。神辺さんにタックルされ、箕内さんに乗られました」
 相手バックローは神辺光春や主将の箕内拓郎。箕内は日本代表キャップ48を得る。

 俊治は試合の記録係をしていた。
「夏前に原付で軽い事故を起こして、そのまま使ってもらえなくなりました」
 春のオープン戦ではパスさばきや俊敏性で1軍出場を果たしていた。

 大一番での感動を覚えている。
「ペナルティーをもらって、大畑さんがスクラムを選択しました。あの時にはしびれました。あれだけ決定力があった大畑さんが自分で行かず、スクラムを選んだのですから」
 主将もこのチームの魂を理解していた。

 翌年度、俊治も正位置を獲る。関西リーグでは初の連覇。続く選手権は関東学院大が連覇する。8強戦で34-43と再び涙を飲んだ。
「バックスリーの得点力が格段に落ちました」
 平田は振り返る。大畑はもちろん、WTB岡田吉之(クボタ)らの卒業も大きかった。

 タレント不在はチーム成績に影を落とす。 残りの2年は関西3位から4位。選手権は初戦敗退。明治に5-60、そして早稲田に32-62だった。平田は3年で腰のヘルニアを受傷。主将になったものの精彩を欠いた。

 4年の間、ひと時の安らぎは「食料合宿」。公式戦の週はチームの競争意識を高めるため、メンバー22人には毎晩、特別食がふるまわれた。その多くが大西のポケットマネーによって賄われ、今も続いている。

 メニューはすき焼き、焼き肉、水炊き、すっぽん、味噌ちゃんこなどだった。
「単純にいつも美味しかったです」
 平田の表情は緩む。

 調理の中心は大西の妻・迪子(みちこ)。大阪の高級住宅地・帝塚山にあった天ぷら「逢坂」の家付き娘だった。茶釜に串を入れ、揚げたてをいただく天ぷらは、芸能人やプロスポーツ選手の間でも人気だった。

 厳しい練習や試合、時にはグルメを経験し、2人は卒業する。平田はNTTドコモに、俊治は近鉄に進んだ。

 平田は首を痛めたこともあり、2年で現役を引退。社業に専念し、今は東京の本社のスマートライフビジネス本部に勤務する。
「クレカとか金融関係の仕事をしています」
 家族は夫人と2子。在京は10年になる。

 俊治は近鉄で7年間、現役を続けた。前田隆介(元監督)の向こうを張って、公式戦出場も果たした。退社後は大阪で生命保険の営業をしている。家族は夫人と3子だ。

 2人とも不惑を1つ超えた。
「学生時代、あれだけ頑張ったことが自分の人生の拠り所になっています」
 そう話す俊治はOB会の会計担当として、大西に会う機会もある。平田は東京にチームが遠征してくれば顔を出すようにしている。
 2人とも自分のルーツは忘れない。

「ただし、もうあの練習をやりたくありません。何億円積まれてもいやです」
「えーえー、何億もくれるんやでー」
 この掛け合いはこれからもずっと続いて行く。

(文:鎮 勝也)

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