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<3>「山手線」は品川線から改称 今から119年前に誕生した

3/24(火) 9:26配信

日刊ゲンダイDIGITAL

【目からうろこ 山手線トリビア】#3

「日本鉄道」は明治29(1896)年に土浦線を建設。田端~水戸間が開通し、翌年には平駅(現いわき駅)まで達し、海岸線(現在の常磐線)と改称した。これにより、常磐炭田から東京への石炭輸送が主要な輸送品目となった。

 ちなみに、開業時の常磐線は起点が田端駅で、三河島駅へ向かう現在貨物線として残る線路が当時のルートであった。常磐線の電車が走る三河島~日暮里間は、上野駅乗り入れのため、明治38(1905)年になって開業した区間であり、不自然な急カーブで日暮里駅につながっているのはそのためである。

 当時の外航船は石炭を燃料とする蒸気船が多く、日本の貿易の中心をなす横浜港でも石炭の需要は大きかった。しかし、海岸線で田端駅に到着した常磐炭田の石炭を横浜港へ運ぶには、いったん赤羽駅まで北上し、スイッチバックして品川駅に向かう必要があった。

 この煩雑さを解消するため、「日本鉄道」は田端~池袋間を結ぶ豊島線を建設に着手。明治35(1902)年5月、板橋~目白間に池袋信号所が設置され、翌年の田端~池袋間開通時に晴れて池袋駅に昇格した。

■最初は池袋に駅を作る予定はなかった

 実は、豊島線の計画段階では、品川線との分岐は目白駅の予定で、池袋に駅を作る予定はなかった。しかし、目白駅は神田川の河岸段丘を削って設けられており、周辺に用地を確保するのが難しかった。そこで、目白駅北側の野原で、用地が容易に確保できた池袋が分岐駅に選ばれたのである。

 豊島線西側のルートは計画段階で何度も変更されているが、巣鴨駅から大塚駅に向かう現在の山手線の南に向いたラインを延長していくと、目白に至るのが当初計画の名残りとも言われる。また、池袋の「びっくりガード」のあたりで分岐して巣鴨駅に向かう計画もあったが、ちょうど巣鴨監獄(のちの巣鴨プリズン、現在のサンシャインシティ)を突き抜ける形となり、実現しなかった。

「山手線」の名は、来年で誕生120年の田端~池袋間の開通に先立つ明治34(1901)年11月、「日本鉄道」が逓信大臣の認可を得て品川線を山手線に改称し、建設中の豊島線田端~池袋間は山手線の支線となった。ここに「山手線」の名前が初登場した。

 明治37(1903)年に日露戦争が勃発すると、貨物の輸送が増加し、山手線は新宿~池袋間を皮切りに順次複線化が行われた。また、この年の8月には新宿駅で連絡する「甲武鉄道」が飯田町(水道橋~飯田橋間、廃止)~中野間を電化し、日本の普通鉄道では初めて電車運転を行った。この電車は長さ10メートルほどの2軸車であったが、連結器があり総括制御ができたので、2両以上連結して運転できるなど、路面電車とは一線を画した車両であった。

 この「甲武鉄道」の電車が、国有化により後の国電の元祖となった。そのうちの1両は私鉄に払い下げられ、今のアルピコ交通上高地線の新村車庫に保存されている。  =つづく

▽間貞麿(あいだ・さだまろ)/交通ジャーナリスト
1953年、福岡県生まれ。早大一文日本史専攻卒。中学から大学まで鉄道研究会に所属。昭文社で地図・ガイドブックの編集者を経て独立。旅や交通をテーマに取材、執筆活動を続けている。

最終更新:3/24(火) 9:26
日刊ゲンダイDIGITAL

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