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志村けんお笑いにかけた人生「イヤなことがあっても思いきり笑えば忘れられる」

3/30(月) 16:42配信

婦人公論.jp

◆笑うのは人間にしかできないことですから

人気コメディアンの志村けんさんが、3月29日、新型コロナウイルスによる肺炎のため、亡くなった。享年70。報道が流れてから、日本中が悲しみに包まれている。

【写真】母・志村和子さんがいかりや長介に言われたこと

1999年の『婦人公論』のインタビューで、

「イヤなことがあっても思いきり笑えば忘れられる。笑うのは人間にしかできないことですから。これがなかったら人生やっていけない。だから僕は、少しでもそういう笑いをつくっていければいいなと思っているんです。自分がそういう役に立てればってね」(「〈50歳直前に語ったオレのすべて〉下品な笑いのどこが悪い!」1999年3月22日号)

と語った志村さん。「お笑い」に対して熱く、まっすぐな想いを持っていた稀有なコメディアンだった。

1950年(昭和25年)、現在の東京都東村山市で、厳格な教員の父、踊りや芸事が大好きな母のもと、3人兄弟の末っ子として誕生。

中学生の時には、もうコメディアンになろうと決めていたという。進学校の都立久留米高校に進んでも、その夢は変わらなかった。お笑いの仕事をしようと思ったら、付き人になるか弟子入りするしかなかった時代。高校卒業間近に、住所を調べて「ザ・ドリフターズ」のいかりや長介さんを訪ねる。1週間後に電話がかかってきて……。

「『付き人が辞めたから、お前を使ってやる』と言われた。卒業式もまだだったので「4月からにしてほしい」と言ったら「すぐに来い」と言われて、そのまま巡業の旅に出ることに……。付き人といっても、当時のドリフは楽器を使ったコミックバンドだったので、主な仕事はアンプやドラムなどを運び、楽器をセッティングすること。結構な力仕事でした。月給は5000円だから、食うのが精一杯。でも自分から進んで入った道だから、それほど大変だという気持ちはなかったですね。だいたい、給料もらえるなんて思ってなかったですから」(1999年)

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最終更新:5/2(土) 10:09
婦人公論.jp

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