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虐げられた国立感染研、リストラ強要

3/30(月) 18:05配信

ニュースソクラ

【医療の裏側】開祖は北里、東大医学部閥から疎まれた

 3月19日夜、新型コロナウイルスの対策について政府の専門家会議が見解を示した。

 前回9日の見解と同じく、感染は一定程度持ちこたえられているものの、一部地域で拡大が続いており、全国にひろがれば「オーバーシュート」という大流行につながりかねないと指摘。感染拡大地域での緊急事態宣言に触れつつ、感染が確認されていない地域は、学校活動や屋外スポーツ観戦、文化施設利用などリスクの低い活動から自粛を解除してもよい、と方向性を示した。

 自粛による経済への大打撃と、新型肺炎の危険度を天秤にかければ、概ねこのような方向になるのだろう。全世界的に人の移動が制限されているなか、日本は日本のペースで収束を目指さざるを得ない。政治主導で、対策が遅れたが、専門家会議の役割が日に日に高まっている。

 その専門家会議の座長は、脇田隆宇・国立感染症研究所所長が務める。副座長は尾身茂・独立行政法人地域医療機能推進機構理事長で、十名の構成員のなかに鈴木基・国立感染症研究所感染疫学センター長が入っている。感染症の研究、臨床のプロが顔をそろえる会議でも、感染症研究所(以下、感染研)のウェイトが大きい。感染症の制御が感染研に託されている。

 所長、副所長のもとに25部署、職員300余名が働く感染研とは、どのような組織なのだろうか。じつは、昨年4月9日の参議院内閣委員会で、感染研にスポットが当たっている。

 その「弱体化」が取り上げられたのだ。安倍内閣は、2015年度から自衛官などを除いた約30万人の国家公務員について、毎年2%、5年で10%の定員削減目標を各省に課してきた。役割が重いとして独法化されず、国の直轄研究所である感染研にも一律の定員削減が強いられる。特定の専門家が定年退職しても新規採用が見送られ、研究の継続性の危機、弱体化が生じているのだ。

 質問に立った共産党の田村智子議員は、こう説き起こした。

 「(感染研は)実際に感染症が発生すれば、地方衛生研究所と一緒に実動部隊としても行動いたします。致死性の感染症のパンデミックが起きた場合は、職員や研究者は国家公務員として危機対応に当たるわけです。これはアメリカでいいますと、CDC、疾病予防管理センター、NIH、国立衛生研究所、FDA、食品医薬品局の三つの機関の役割をわが国では国立感染研が一手に担っているということになります」

 「2016年2月に作成された、国際的に脅威となる感染症対策の強化に関する基本計画でも機能強化がうたわれています」

 ところが、感染研の研究者は毎年減っている。

 「当時(2013年)の研究者は312人です。今年度の定員は306人です。これはどういうことなんでしょうか。必要な業務が減ったとでもいうのかどうか」

 政府参考人、佐原康之・厚生労働省大臣官房総括審議官は、「国立感染症研究所においても、業務の効率化等を通じて、この合理化目標の範囲内で定員管理をしてまいりました」と答える。さらに田村議員が「感染研の予算、10年前の水準から比べると、約20億円、3分の1減っている」と指摘すると、宮腰光寛・内閣府特命担当大臣(当時)は「厳しい財政事情の中、引き続き計画的な定員の合理化に取り組む」と型どおりの回答でお茶を濁した。

 感染症対策は、国民の生命をまもる「安全保障」の一環だ。効果も不明なイージスアショア2基6000億円の予算は、そっくり感染症対策に回してもいいのではないか、と言いたくもなる。感染研は、与えられた重い役目の割に政府内で軽んじられているようだ。

 そもそも感染研は、どのようにして誕生したのだろうか。

 その母体は、1892(明治25)年11月に「日本の細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎(1853―1931)が福沢諭吉の援助で創設した「大日本私立衛生会附属伝染病研究所」にさかのぼる。

 東京大学医学部を卒業して内務省衛生局に入職した北里は、ドイツに留学し、「近代細菌学の開祖」ロベルト・コッホに師事した。コッホのもとで破傷風免疫体(抗毒素)を発見し、血清療法を確立して世界を驚かせる。同僚と連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表し、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補となった。残念ながら、ノーベル賞は同僚だけが受賞したが、北里の名声は世界にとどろいた。

 わが道をゆくタイプの北里は、ドイツ留学中、東大時代に細菌学を教わった緒方正規が「脚気病原菌説」を発表すると、これを厳しく批判した。すると東大閥の陸軍軍医、森林太郎(おう外)が緒方に加勢して北里を攻撃する。脚気菌説は誤りで、医学上は北里に軍配が上がるも、東大との間に亀裂が入る。北里と東大の反目が始まった。

 帰国した北里は、1892年6月、内務省の同僚だった後藤新平らが設立した大日本私立衛生会(日本公衆衛生協会の前身)で「伝染病研究所設立の必要」と題した講演を行い、世のなかに訴えた。しかし、医学界は動こうとしなかった。

 伝染病の予防や治療を担う内務省衛生局と、東大医学部を中心に医師教育を司る文部省、ふたつの流れは容易に交わらない。そこに北里個人と東大閥の対立が加わり、伝染病研究所設立の見込みは立たなかった。

 手をさしのべたのは慶應義塾の創立者、福沢諭吉である。旧知の内務省関係者に、伝染病研究所をつくりたくても先立つものがない、政府が設立するには2年以上かかる、米国や英国のように研究所をつくりたくても人がいないならともかく、日本には北里がいるのに情けない、と泣きつかれた。

 「仕事してから後に金を集めたほうがよろしい。とるに足りない俗論に拘泥して、国家の面目を毀損することがあってはすまぬ」

 と、福沢は答え、芝区芝公園、現在の御成門交差点の南東角に借りていた土地に、2階建て建坪10数坪、上下6室の建物をこしらえ、北里に提供した。これが大日本私立衛生会附属伝染病研究所の始まりである。北里は研究所に転居し、毎日朝8時から9時まで結核患者に限って診療した。治療法を切りひらくためでもあった。

 2年後、政府も北里の研究の大切さを認めて補助金を交付。私立伝染病研究所は、芝区愛宕町、いまの芝郵便局のあたりに新築移転した。北里の研究はいよいよ磨きがかかり、香港でのペスト菌発見へとつながる。一方で、母校、東大との溝も深まってゆくのだった。

■山岡淳一郎(作家)
1959年愛媛県生まれ。作家。「人と時代」「21世紀の公と私」をテーマに近現代史、政治、経済、医療など旺盛に執筆。時事番組の司会、コメンテーターも務める。著書は、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『田中角栄の資源戦争』(草思社)、『気骨 経営者 土光敏夫の闘い』(平凡社)、『逆境を越えて 宅急便の父 小倉昌男伝』(KADOKAWA)、『原発と権力』『長生きしても報われない社会 在宅医療・介護の真実』(ちくま新書)、『勝海舟 歴史を動かす交渉力』(草思社)、『木下サーカス四代記』(東洋経済新報社)、『生きのびるマンション <二つの老い>をこえて』(岩波新書)。2020年1月に『ゴッドドクター 徳田虎雄』(小学館文庫)刊行。

最終更新:3/30(月) 18:05
ニュースソクラ

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