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新型コロナは「スペイン風邪」の再来か?―速水 融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争』鹿島 茂による書評

4/3(金) 6:00配信

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◆日本を襲ったスペイン風邪

◇×月×日

新型コロナ・ウイルスのパンデミックで思い出すのは横浜南郊で酒屋をやっていた祖父が一九一八年(大正七年)の秋にスペイン風邪に感染して死にかけたという我が家の言い伝えである。店番中に人事不省に陥り、数日間、生死の境をさ迷ったという。村全体で多数の死者が出たことは墓の没年を見れば一目瞭然だと古老が語っていたことを覚えている。

というわけで急にスペイン風邪が気になり書庫から故・速水融氏の力作『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店 四二〇〇円+税)を引き出して読み始める。二〇〇六年の刊だが、いまこそ緊急復刊されるべき本だ。

日本歴史人口学の開祖の著者は『大正デモグラフィ』(文春新書)を著したときスペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)が世界人口二〇億(現在は約七七億)の時代に二〇〇〇万~四五〇〇万の死者を出した最悪のパンデミックであるにもかかわらず、日本語の研究書が皆無に近いことに気づき、執筆を決意したのだ。

インフルエンザの最初の兆候が現れたのは一九一八年春、スペインではなくアメリカ・カンザス州の兵営だった。第一次大戦に出征する新兵たちの間で感染が広まり、死者も出たのだが報道されることもなかった。アジアでもほぼ同時に発生し、日本では夏場所の力士たちが感染したため「角力風邪」という名前がついたという。著者はこうした同時多発性に注目して、渡り鳥が運んだトリ・ウイルスのヒトへの感染が原因ではないかと推測し、この最初の流行を「春の先触れ」と命名する。「春の先触れ」はヨーロッパでは中立国のスペインで五、六月に流行した後、塹壕戦を展開中の独仏両国に広まったため、後に「スペイン・インフルエンザ」と呼ばれるようになる。ウイルスはとりわけ総攻撃準備中のドイツ軍を痛撃した。ドイツ軍を事実上指導していたルーデンドルフはマルヌの戦いの敗戦は新規参戦のアメリカ軍ではなく、インフルエンザが原因であると回想している。

このようにインフルエンザは第一次大戦の趨勢に大きな影響を与えたが、死亡者は比較的少なく、七月頃には消滅したかに見えた。だが、そうではなかったのである。「一九一八年八月後半、おそらくフランス西部(例えば、ブレストなど)か、アフリカ、シエラ・レオーネのフリー・タウンのごった返す港町で、ウイルスは変異した。(中略)インフルエンザ・ウイルスは、世界一周の後、変異し、凶暴化して人類に襲いかかってきたのだ」

しかし、凶暴化はまだ認識されていなかったため、アメリカ東海岸の港では「変異したインフルエンザ・ウイルスに感染した下船患者と、これから大西洋を渡ってヨーロッパの戦線に向かおうとする若者とが交錯することになった」

最初にウイルスが牙を剥いたのはボストン近郊のディベンズ基地の兵営だった。「(九月)二二日には兵営の兵士の二〇パーセント近くが罹患し、月末にかけて何千人もの患者が病院に殺到し、医者や看護婦は早朝から深夜まで対応に追われ、ついには彼ら自身罹患してしまう」。一日に一〇〇人もの兵士が死亡し、棺桶もなく積み上げられた。まさに一〇〇年後の現在、武漢やイタリア北部で起こっていることである。上陸したウイルスは、兵営を襲い、多くの兵士が渡航前・航海中に命を落とした。アメリカ軍の第一次大戦の戦没者は約一〇万人だが、その八割がスペイン・インフルエンザによる病死だった。凶暴化したウイルスはとくに若く健康な肉体を好んだのである。感染はアメリカ兵を介して前線に広まり、戦場から帰還した詩人・ギヨーム・アポリネールは感染して休戦の前々日に死亡。「死亡者は通常のインフルエンザと異なり、健康な壮年層に多かった。フランスでは若くして死亡した詩人の名にちなんで『アポリネール症候群』と呼ばれている」

凶暴化した殺人ウイルスは一九一九年の春まで世界中を暴れまわったが、夏になると終息したかに見えた。しかし、またもフェイントだったのである。なぜなら、一九一九年の秋からターミネーターのように蘇生し、致死率を高めていったからである。

著者はこの二度に渡る流行を「前流行」と「後流行」に分け、日本における感染実態の分析に入る。日本には意外にも統計資料がたくさん残されているほか、インフルエンザの侵攻と拡散を如実に示す新聞記事が地方紙に豊富に見いだされるからである。

まず「前流行」は一九一八年九月末から一〇月初頭に始まった。『新愛知』が「日紡大垣工場に奇病発生」と伝え、滋賀県大津の歩兵第九連隊で四〇〇名の患者発生を報じているからだ。工場、兵営、学校がクラスター感染を引き起こし、インフルエンザは都市部から農村部へと広がり、死亡率を高めていった。被害が大きかったのは京都・大阪・神戸で、死者は火葬場の処理能力を超えて増加した。福島県の人口二七六人の農村では六人を残して「全村惨死」。東京では島村抱月が罹患して死亡、女優で愛人だった松井須磨子が後追い自殺するという悲劇も生まれていた。

残存する最も詳細な記録は軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の「戦時日誌」。一九一八年一一月にシンガポールで乗組員の上陸を許したがために艦内感染が広まった「矢矧」は翌年一月に気息奄々で帰還。乗組員プラス便乗者四六九名の九割以上が罹患し、死者は四八名。罹患しなかったのはシンガポールで便乗した巡洋艦「明石」の乗組員で、彼らはすでに罹患して免疫をもっていたのだ。「この第一撃に人々はよくも耐え、大きなパニックにはならなかった。しかし、どこかに潜んだウイルスは、次の出番を静かに待っていたのである」

一九一九年の秋の「後流行」は九州から始まったが、全国的に拡大したのは一二月に入ってからだ。当時、新兵の入営は一二月一日で、兵営内に潜んでいたウイルスが何の免疫も持たない新兵に襲いかかったのだ。「後流行」は東京でも猛威をふるい、一月には毎日三〇〇人近い死者を出し、シベリア出兵でも多数の戦病死者を記録した。

著者は詳細な記録の残っている神奈川県の数字を分析して郡別対人口死亡率グラフを作成し、「前流行」と「後流行」は別のウイルスという説を退けて、次のように結論する。「『前流行』期に死亡率の高かった郡は、『後流行』期には低く、逆に『前流行』期に低かった郡は、『後流行』期に高かったことを示している。やはり、スペイン・インフルエンザ・ウイルスへの抗体免疫の有無が原因と言えないだろうか。そうだとすると、『前流行』のウイルスと『後流行』のウイルスは、同じH1N1型だったことになる」

では、スペイン・インフルエンザにより日本全体では最終的にどれくらいの死者を出したのだろうか? この点に関して、さすがは偉大なる歴史人口学者だけあって資料の数字を鵜呑みにせず、批判的な検討を加えている。すなわち、従来、内務省衛生局『流行性感冒』を典拠に死者は三八万五〇〇〇人と推計されていたが、これは少なすぎるという。
「有効な方法とは、『超過死亡(excess death)』概念の適用である。ここでいう超過死亡とは、ある感染症が流行した年の死亡者数を求めるに際し、その病気やそれに関連すると思われる病因による平常年の死亡水準を求め、流行年との差をもってその感染症の死亡者数とする考え方である」

この超過死亡概念によると「われわれの計算では『前流行』の『インフルエンザ死亡者』は二六万六四七人、『後流行』は一八万六六七三人、合計四五万三一五二人で、この数は、従来言われてきたどの死亡者数よりも多い」

願わくは新型コロナ・ウイルスが「春の先触れ」でないこと! 拳々服膺すべき一冊。

[書き手] 鹿島 茂
フランス文学者。明治大学教授。専門は19世紀フランス文学。
1949年、横浜市生まれ。1973年東京大学仏文科卒業。1978年同大学大学院人文科学研究科博士課程単位習得満期退学。現在明治大学国際日本学部教授。
『職業別パリ風俗』で読売文学賞評論・伝記賞を受賞するなど数多くの受賞歴がある。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。新刊に『日本が生んだ偉大なる経営イノベーター 小林一三』(中央公論新社)、『フランス史』(講談社)などがある。
Twitter:@_kashimashigeru

[書籍情報]『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争』
著者:速水 融 / 出版社:藤原書店 / 発売日:2006年02月25日 / ISBN:4894345021

週刊文春 2020年4月2日号掲載

鹿島 茂

最終更新:4/3(金) 22:09
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