作家の甘糟りり子さんが3歳から暮らしたご実家であり、現在は住居兼職場でもある稲村ケ崎のお住まいは、それは鎌倉らしい「ザ・日本家屋」な風情溢れる佇まい。ここを舞台にした甘糟さんのエッセイ『鎌倉の家』(河出書房新社)は、四季折々の鎌倉の魅力や暮らしがまるで映画のワンシーンのように描写されている。是非このご自宅で直接お話を伺いたい、という思いに駆られ稲村ケ崎を訪ねました。
合掌造りの高い天井にはいぶされて飴色になった煤竹(すすだけ)と太い梁。漆喰の壁とのコントラストが印象的なリビング兼応接スペース。
甘糟さんが鎌倉・稲村ケ崎に引越してきたのは、3歳のとき。約50年前の鎌倉駅前にはテニスコートが広がり(現・紀伊国屋)お店も少なく、稲村ケ崎も夏場は海の家が出るくらいの広さの砂浜があり、別荘地らしさが残るいまとは全く違う鎌倉だった。「江ノ電で小学校に通っていたときの電車賃は、確か10円だか20円でしたよ」と甘糟さん。
引越し時に建っていたのは、昭和初期に建てられた数寄屋造りの日本家屋。その後中学生のとき、豪雪地帯の築250年という合掌造りの民家を解体して運ばれた梁などの部材を使って別棟部分を大改築。さらに出版社にお勤めだったお父様のこだわりで、土蔵の壁をすべて本棚にした書庫を増築。こうして茶室風の華奢な数寄屋造り、太い梁の剛健な合掌造り、耐久性に優れた蔵、という3種の日本建築が一体となった現在の甘糟邸が完成した。
「大学時代までは、この実家から学校にもよく遊んでいた六本木にも通っていました」というが、卒業後は仕事が忙しくなり、都内にも部屋を借りた。「住んだのは、三軒茶屋、中目黒、広尾、狸穴坂、芝浦などでしょうか。平日は都会、週末は鎌倉に戻る生活でした」。
東京での一人暮らしのメインとなったのは、いまは取り壊しになってしまった狸穴坂の外国人仕様アパートメント。丁寧につくられたヴィンテージ感が気に入って、「同じアパートメント内でも引越して、10年以上住みました」。それから気分転換のため、いままでとは逆の芝浦の新しいタワーマンションに。「分不相応に広く、25階で眺めも良かったけれど、1年で蕁麻疹ができちゃって。古い家の方が自分に合っているのかな、と気付きました」。
最終更新:4/7(火) 15:47
SUUMOジャーナル


































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