【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】
いわゆる“花の82年組”といわれるアイドルで中森明菜のデビュー曲『スローモーション』は“不発”に近かった。もちろん「事務所やレコード会社が弱かった」とはいえ、数ある音楽番組や大手芸能誌の明菜への評価は低かった。
【写真】頭を丸めた明菜「歌姫2」のジャケット
そんな中でもデビュー前から明菜を積極的に起用したテレビ東京『ヤンヤン歌うスタジオ』の沼部俊夫プロデューサー(故人)に生前、明菜について聞いた。
沼部氏は「明菜ちゃんは本当に(番組に)貢献してもらいました」と前置きした上で、「アイドルの中でも歌唱力はズバ抜けていたし、素材として素晴らしかったので迷うことなく出演してもらいました。勘もよく、周りにも気遣う子で、なるべくしてビッグになったと思っています。あえていうなら彼女は視聴者の反響がすごかったことでしたね。しかも、そういったファンを大切にしていました」。
しかし、明菜を評価するテレビ局のプロデューサーは少なかった。「沼部さんのようなプロデューサーはまれだったかもしれません」とワーナー・パイオニア(当時)で明菜のプロモートを担当した富岡信夫氏。
そんな業界内の動きを明菜も感じ取っていたのは確かだった。「口には出しませんでしたが『絶対に負けない』と思っていたはず。とにかく芯も強く、負けず嫌いの子でしたから」(富岡氏)
当時を知る芸能関係者は「明菜は思い込みや感情が激しい一方、真面目でストイックなタイプ。デビューは16歳でしたが新人の中でも勘は優れていたと思います。おそらく当時からセルフプロデュースの才能も持ち合わせていたように思います。相手が大人だからとこびることもなく、現場でもマネジャーに自分の意見を言っていた。ですから当然、デビュー当時の屈辱はあったはずですし、その後の活動で大きなバネになっていったように思いますね」。
そんな明菜が、芸能界の「お手本」にしていたのが、明菜の宣伝を統括していたワーナーの寺林晁氏(現エイベックス・エンタテインメント レーベル事業本部アドバイザー)が担当していた矢沢永吉の方向性だった。
「矢沢さんはテレビや雑誌には出ない分、ライブで全国を回ってファンと出会う機会をいっぱい作っている。私も矢沢さんのようなアーティストになりたい」
富岡は、明菜と行動をともにする中で「そういう純粋な気持ちを酌み取ってあげたい」と考えていた。しかし、明菜の方向性を考える中で富岡が真っ先にこだわってきたのがビジュアルだった。
「何をしてもアイドルはイメージが大切ですからね。まずは3年計画でジャケットの撮影カメラマンを考えたんです」。ピックアップしたカメラマンが1年目は野村誠一、2年目は渡辺達生、そして3年目は三浦憲治とそうそうたる面々だった。
「(松田聖子、河合奈保子と並ぶ80年デビューの1人だった)柏原芳恵のプロモーションを見ていて、いつも彼女はジャケットがクローズアップされていたのが気になっていたんです。で、カメラマンを調べたら野村さんだった。だったら、明菜も野村さんに撮ってもらったら、プロモーション展開もうまくいくのではないかと思ったんです。三浦さんは、桃井かおりを撮影してきた人で明菜が桃井の大ファンだったのでピックアップしてみたんです」
富岡氏のビジュアルを前面に出す考えには寺林氏も賛成し、カメラマンについても「いい人選」と評価した。もちろん明菜も納得した。
その一方、デビュー曲に続く第2弾シングルが混迷。当時、アイドルのシングルは3カ月に1枚、年間4枚を発売するローテーションが通常だった。そんな感じで当然、第2弾シングルも決まっていたが…。(芸能ジャーナリスト、渡邉裕二)
■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、54歳。東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE-情熱-」などヒット曲多数。
NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。
最終更新:4/8(水) 16:56
夕刊フジ































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