画面内の黒く短いひげの青年が、ヘルメットをかぶり愛国歌を一緒に歌っている。青年の眼差しは旧全羅南道庁前の噴水台広場での集会に向けられている。1980年5・18、当時19歳で市民軍に加わったクァク・ヒソン氏(59)は、光州(クァンジュ)YMCAの屋上で銃を握り立っていた。ドイツ公営放送の記者、ユルゲン・ヒンツペーター氏(1937~2016)が撮影した当時の映像に若かりしクァク氏の姿が出てくる。ヒンツペーター記者は、映画『タクシー運転手』の実在の主人公だ。
ヒンツペーター氏に会ったのは80年の5月23日頃だった。通訳1人と同行したヒンツペーター氏は、光州YMCAの屋上に上がってきて、全羅南道庁前の集会場面を撮影させて欲しいと言った。クァク氏は最初は断ったと話した。「(抗争指揮部が)後で生き残れば大変なことになるからと、写真撮影には応じないようにと言われました」
ヒンツペーター氏が市民軍に洋モクを一箱ずつ渡した。吸い終わると若い市民軍たちは色めき立った。その時のことだった。誰からということもなく市民による国歌斉唱が始まった。「その時は、愛国歌を聴いただけで胸が熱くなりました。道庁商務館には遺体もあったし。ところで、集会場面を撮っていた外国人記者が、愛国歌を歌っていた私に突然カメラを向けたのです。私は撮られたことも知りませんでした」
クァク氏が5月の荒波の中に陥ったのは“戦車の轟音”のためだった。その年の1月、空輸特戦旅団に志願したが、家族の反対で入隊できなかった彼は、入隊の日を待っていた。「遊んでいたので5・18が勃発したことも知らなかった。友人が開いた花亭洞(ファジョンドン)サッシ店に集まっていました」。クァク氏は5月19日朝、後輩のヤン・ドンナム氏と道路に出て、居並ぶ戦車の行列を見た」。「何か起きたらしい」と思いました。ずっと歩いて上がってみると、国軍統合病院に戦車がたくさん駐まっていました。車は通っていませんでした」。その日は、全斗煥(チョン・ドゥファン)新軍部が、市民を虐殺するために本格的に戦車と兵力を配置した日だ。
クァク氏は、旧全羅南道庁方面行きのバスに乗った。同行した後輩のヤン・ドンナム氏は、その日を5月20日と記憶していた。「農城洞(ノンソンドン)には地下車道はなかったが、その付近に製材所がありました。その前にいると、市民たちが運転するバスから「道庁に行く人は乗れ」と言いました。迷うことなく乗りました。市内の韓国銀行交差点で停車しました」。クァク氏は、忠壮路(チュンジャンノ)入り口で初めて遺体を目撃した。「リヤカーの上に遺体が積まれていました。太極旗に覆われていましたが顔は見えました。それを見て、恐いというより無性に腹が立ちました。怒りがこみあげて。口から悪口も出ました」
空輸部隊の軍人たちは、催涙弾を発射しながら市民たちを追いかけた。後輩のヤン氏とは逃げている間に離ればなれになった。須奇洞(スギドン)のある店に逃げて、平台の下に潜り込んだ。平台の下の粗い材木で顔を怪我したがうめき声も出せなかった。軍人たちが駆け付けて来て、店の老夫婦に行方を問い質した。ありがたいことに老夫婦が「誰もいない」と言ってくれて連行を免れた。その店を出て結局軍人たちに捕まった。「私の髪が長くて、屑拾いだと思ったのか、こん棒で数発殴っただけで、逃げろと目配せした」。本当に幸いでした。
5月21日、旧全羅南道庁前の戒厳軍が集団発砲をした後、市民たちは自身を守るために武装を始めた。クァク氏は、光州近隣の和順(ファスン)に行こうと提案した。小学校の時、和順炭鉱で働いていた父親に弁当を届ける際に見たダイナマイトを思い出した。68年の和順炭鉱爆発事故で父親は右手首と視覚・聴覚を失った。市民たちと和順に向かったクァク氏は、光州~和順の境界のノリッチェ(峠)検問所で、警察官らが捨てた銃を手に取った。和順炭鉱に向かう途中のある派出所で実弾を手に入れ光州に戻った。
郊外に退却した戒厳軍によって光州は封鎖されていた。クァク氏は、アジア自動車(現在の起亜自動車光州工場)に行き、軍用トラックを駆って出てきた。「軍用トラックには鍵がありません。レバーを倒せばいいんです。多くの人が車を引っ張って出てきました。そいつに乗って行きました。運転した人が農城洞の原木バリケードがある所に行きました」。車に乗った10人余りは、しばし車から降りて飲み物とのり巻きで腹を満たした。その時、突然銃声が轟いた。「教練服を着た10代と見える人がトラックに上がりました。『上がるな!』と大声を張り上げたが、銃で撃たれて倒れました」
教練服の少年を助手席に乗せて、基督病院に車を走らせた。初めての運転だった。「尻が濡れています。触ってみると血が尻から流れていました。タオルで覆いました。目の下に銃弾が当たり、頭の後に穴が開いていました」。クァク氏は半分正気を失っていました。応急室から出てきた医療スタッフは首を振った。「病院内に入れさせまいとするので、その少年の手を握り、胸を1・2回、とんとんしました」。
再び道庁に行きました。市民収拾対策委員会と戒厳司令部側が交渉を進めたが、合意には至れなかった。戒厳軍は武器の返却を要求し、若者たちは決死抗戦を主張した。戒厳軍の尚武忠正作戰(光州再鎮圧作戦)は、5月27日に予定されていた。クァク氏は、市民軍に編入され、全日ビルディングから韓国銀行交差点までの巡回パトロールをした。逃げながら離ればなれになった後輩のヤン・ドンナム氏の近況もその時知った。市民軍で全羅南道庁の警備を担当していた。
彼は最後の抗争の直前に、死を避けて光州を後にした。銃器の回収に出た彼は、月山洞(ウォルサンドン)ロータリー側から「ベトナムスカート」をまとって、ぼんやりした目で街をさまようある女性を目撃した。母親だった。「私が死んだと思って、霊安室を尋ね歩かれていたと後日聞きました」。その日は眠れずにいて市民軍の部隊長に悩みを打ち明けた。部隊長は「いつでも銃を返して行け」と言った。戒厳軍の目を避けて、路地と草むらを選んで歩いて、36時間かけて自宅に到着したが、一人だけ生き残ったという負い目で恥ずかしかった。
82年2月に軍に入隊し満期除隊した。その頃、ビデオ店を営む友人がこっそりと貸してくれた5・18民主化運動ビデオを見て驚いた。タバコをくれた外国人記者(ヒンツペーター氏)が撮った5・18の映像を見たからだ。愛国歌を歌うクァク氏の姿を見た友人は「捕まるかも知れないので人混みには行くな」と言った。86年からタクシー運転手になった彼は、常に頭を短く刈って背広のズボンとチョッキ姿にネクタイを締めた。端正な印象を与えれば、5・18と関係ないように見えるのではと考えた。息子2人が生まれるまで、妻には5・18市民軍だったという事実を隠した。
5・18の記憶を誰にも話さなかったが、不正に目を閉ざせない気質は隠せなかった。89年に務めていたタクシー会社から御用労組を追い出すために、40余日間のストライキを打ち、集会示威法違反と暴力容疑で逮捕された。紆余曲折の末に復職し、労組委員長になった。6年4カ月にわたり労組を率いた。1992年頃には、5・18光州抗争民主運転主同志会に加入して、他の会員たちと無認可福祉施設を訪れ、入浴支援などの奉仕活動もした。賃貸アパートで暮らした彼は、そこで5・18の時に別れた後輩のヤン・ドンナム氏と劇的再会をした。ヤン氏は内乱実行罪で獄苦を味わい出所したという。彼は何も言えなかった。
個人タクシーの運転手として生計を立ててきたクァク氏は4年前、光州トラウマセンターの写真治癒プログラムに参加した。クァク氏ら7人の5・18有功者は、2016年5月16~23日ソウル市民庁のギャラリーで展示会を開いた。彼は国立5・18民主墓地741基の墓地を一つずつ撮影し一つのイメージとして作品化した。その写真を撮ってから初めて国立5・18民主墓地を訪ねた。「教練服のその少年がどこに埋まっているのかを探したいのです。すべての墓を2回ずつ黙祷し1カットずつ撮りました。おかげで少しは負い目が減りました」
クァク氏は5・18真実糾明闘争に積極的に参加している。5・18を歪曲する保守論客チ・マンウォンは、彼を黄海南道人民委員長クォン・チュンハク「184番クァンス(光州に投入された北朝鮮特殊作戦軍)」とのレッテルを貼った。クァク氏など4人は2015年10月、チ・マンウォンを名誉毀損などで告訴した。その後、追加告訴がなされ5件(15人)と『タクシー運転手』の実在の人物である故キム・サボク氏に対する死者名誉毀損告訴事件などが併合されて裁判が進んでいる。チ・マンウォンは2月13日、懲役2年の実刑と罰金100万ウォンを宣告されただけで法廷拘束は免れた。
「法廷に行き、俄に(チ・マンウォンに)襲いかかりたいと思いました。判事がいようが検事がいようが構いません。かろうじて自制しました。必死にこらえました。自分が騒ぎを起こせば、また5・18に対する非難が起きるからです。それにしても、あろうことか後輩のヤン・ドンナムが北朝鮮のチェ・リョンヘだとか言うなんて、ヤン・ドンナムが洪吉童(ホン・ギルドン)なのか?自分も軍隊にも行ってきたのに、クァンスだとはね」
チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
最終更新:4/8(水) 17:11
ハンギョレ新聞



































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