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インターネット上の空間で「運動の自由」を勝ち取るために。 檜山真有評「ハンナ・アーレントと20世紀」展

5/13(水) 16:13配信

美術手帖

ガラスの中の幽霊たち


 ふたたびパスカルー「人間のあらゆる不幸はたった一つのことから由来する。それは自分の部屋でじっとしていられないということだ」。パスカルがこの言葉を『パンセ』に書き綴ったのとほぼ同時期に、デカルトはアムステルダムのその部屋から、フランス人に手紙を書いた。


 「自由というものを人間がこれほど享受できる国がほかにあろうか?」とデカルトは晴れやかに書く。ある意味では、すべてのものは他のすべてのものの仲介として読むことができる。例えば、アンネ・フランクが戦後まで生き残り、アムステルダムに住む大学生となってデカルトの『省察』を読んでいる姿を想像すること。あまりに圧倒的な孤独、あまりに癒しがたい、何百年も息が止まってしまうほどの孤独を想像すること。

ーーポール・オースター『孤独の発明』(柴田元幸訳、新潮文庫、1996)


​ 歴史的事実とは異なる「ありえたかもしれない未来」を想像すると、物語はより一層複雑なものとなる。物語が事実と乖離していればしているほど、私たちは想像力を膨らますことができるし、歴史的事実を知っているがゆえに憐れむこともできる。ポール・オースターの『孤独の発明』から引用したこのフレーズは、主人公がアムステルダムを散歩しているときに博物館として保存されているアンネ・フランクの家を偶然見つけたときのシーンである。もしも、この展覧会が会期通りにオープンできていたら……?
もしも、このような状況にならずに、オンラインで異国の展覧会の様子を知ることができていなかったら……?

 「ハンナ・アーレントと20世紀」展は、ドイツ歴史博物館で実空間でのオープンを待っている展覧会だ。ベルリンのラジオ放送局rbb
kulturと提携して展覧会の様子をウェブサイトで公開しており、展覧会の会場写真とオーディオガイド、レクチャー音声、キャプションがコンテンツとして上げられている。展覧会は、彼女がアメリカへの亡命前に仕上げ、戦後同地で発表されたユダヤ人女性ラーヘル・ファルンハーゲンにまつわる仕事から始まる。取り上げられるのは、シオニズムやアウシュビッツにおける全体主義、アイヒマン裁判、アメリカでの生活、学生運動への応援や彼女の交友関係などである。rbb
kulturを補足するかたちでドイツ歴史博物館のホームページ内でもアーレントの略歴や、ナチスの行ったことやその影響で生じた移民問題などが仔細にテキストで紹介されている。


 ウェブサイトを見渡したところで、彼女の代表作である『人間の条件』(1958)や『全体主義の起源』(1951)などへの言及が見当たらないことを推測するに、アーレントの政治思想を振り返るというよりも、20世紀のあらゆる不条理や理不尽によって思索を深めた偉大な思想家がなぜ生まれたか、という点を展覧会はフォーカスしているようだ。

 ところで私は、この展覧会を推測でしか語ることはできない。なぜなら、rbb
kulturはすべてドイツ語で展開され、私はGoogleを通じてドイツ語から英語に自動翻訳されたテキストでしか、この展覧会で何が語られているか読み取ることができないからだ。同時に、ラジオであるが特性ゆえのドイツ語の音声配信コンテンツについてはまったく聞き取ることができなかった。しかし、いつも私が自分の足で行く実空間での展覧会においても、展覧会で用意されているすべてのコンテンツを鑑賞しているか、それらを正確に思い出せているかといったらまったくそうではない。アーレント自身も英語とドイツ語を書き分けており、それらを日本語で読む我々が完全に理解すること自体困難であることに似ている。


 ハンナ・アーレントは、公的な空間を「共同の行動によって構成され、歴史へと発展すべき出来事と物語とでおのずから満ちあふれている」(*1)と表現した。ミュージアムもインターネットもその例に漏れない公的な空間だといえる。だが、インターネット上に広がる空間にいつまでも公共性が芽生えず、いまでもなお「オルタナティブ」な位置にあるのは、インターネットが本質的に個人に紐付き、利用者を特定できる機械/システムのためである。​


 実空間における展覧会は、限りある空間に作品と鑑賞する身体を導く壁を設置することで、作品が発するナラティヴとは異なるナラティヴが生まれる。作品が発するナラティヴは作品の自律性により支えられるもので、いっぽうで、壁や作品といった物理的なものによって、空間に始めと終わり、鑑賞者を導く順路が生まれる実空間における展覧会のナラティヴは鑑賞者の身体の自由によって支えられる。


 限りないインターネット上の空間では、まず領域を定めるところから「展覧会づくり」は始まる。その領域策定は誰でもできるがゆえに、私的な領域に踏み込むことを来場者にまで求めてしまう。来場者の秘密が守られるのが原則である公共施設(ミュージアム)とは異なり(*2)、公的空間(インターネット)のなかに生まれた私的領域は、訪れる来場者のログが残され、追跡される可能性が誰にでも生じる。インターネットの公共性が成り立たない性質は、ウェブサイトに踏み入ってしまうと自己をたらしめるものの情報が相手の手に渡る可能性があるために生じ、それは自分の身体の自由を相手にも明け渡す可能性でもある。我々が自ら勝ち取るものの価値判断の正しさやあり方を解いたアーレントの以下の言葉を鑑みるに、我々は、運動の自由と身体そのもので受け取るナラティヴのありかを、自らの身体で求めていかなくてはならない。


 「自由(フリーダム)」という言葉によって連想されるあらゆる特殊な自由(リバティ)のなかで、歴史的に最も古くまた基本的なものは運動の自由です。望む所に向けて出発できるということは自由であることの原型であり、それゆえに有史以来運動の自由を制限することは奴隷化のための前提条件となってきています。(*1)

*1ーーハンナ・アレント『暗い時代の人々』(阿部齋訳、ちくま学芸文庫、2005)、22頁

*2ーー2020年5月6日現在、日本においてもいくつかのミュージアムが再開を発表したが、来場者の名前や住所などを記入させることや、他県からの来館を自粛要請する感染予防対策を講じることを発表している。筆者はいかなる理由であろうと公共施設がすべての来館者のプライバシーを等しく侵害するようなことはあってはならないと考えており、このような再開の仕方には強く反対する。

文=檜山真有

最終更新:5/13(水) 21:52
美術手帖

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