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モスクワ五輪重量挙げ「幻の代表」 福田さん(今治出身)古里へエール

5/13(水) 10:43配信

愛媛新聞ONLINE

 日本がボイコットした1980年モスクワ五輪。「幻の代表」と言われた日本選手団に、一人の県人選手がいた。重量挙げ75キロ級代表だった今治市出身の福田輝彦さん(63)=京都市右京区。開催直前に夢舞台の道を絶たれ、失意のどん底を味わいながらも気持ちを切らさず、その後も日本記録を何度も更新するなど活躍した。新型コロナウイルスの影響で全国高校総体(インターハイ)など各種大会が軒並み中止となる中、福田さんは「次の一歩を踏み出す強い気持ちを持って」と古里の選手たちにエールを送る。
 日本がソ連のアフガニスタン侵攻に対する西側諸国のボイコットに追随し、モスクワ五輪不参加を決定したのは開幕まで2カ月を切った80年5月24日。当時住んでいた滋賀県で調整を続けていた福田さんにとって、寝耳に水のニュースだった。
 「ボイコットどうのこうのというのは、現実味を帯びた話ではないと思っていた。『行けるやろ』と軽い気持ちでいた」。突然目の前から競技人生最大の目標が消えたショックは大きく、支給されていた五輪代表のウエアを見るたびに「これを着て行っていたはずだったのに…」と悔しさが募ったという。
 福田さんが重量挙げを始めたのは松山聖陵高入学後。北郷中時代に取り組んだ競泳で鍛えた筋肉やバネの強さを生かした瞬発力を武器に、国体の高校ミドル級準優勝などの実績を残した。進学した中大では、67・5キロ級で4年連続学生王者に輝くなど、国内トップ選手へと成長を遂げた。
 階級を75キロ級に上げ、社会人2年目の23歳で迎えたモスクワ五輪。前年にはスナッチで日本新をマーク、まさに脂の乗った時期だった。「今回の東京五輪は1年延期で望みが残されているが、この時は開催されるのに行けない歯がゆさがあった」と振り返る。
 それでも切り替えは早かった。「まだまだ先があると思っていたし、この先どこまで記録を伸ばせるか挑戦したかった」と短い休養期間を挟んで再びバーベルを握った。五輪から1カ月後の全日本選手権、続く国体で自身のスナッチの日本記録を塗り替えると、全日本社会人選手権ではスナッチ、ジャーク、トータルでいずれも日本新をたたき出した。
 「周りの期待もあり、幻のままで終わりたくない」と4年後の五輪も目指したが、ロサンゼルス大会前に負った膝のけがが響き、同大会と88年ソウル大会は最終選考で落選。五輪とは縁がなかったものの、30歳で引退するまでトップレベルを維持し続けた。
 国際情勢にスポーツ界が翻弄(ほんろう)された80年当時とは状況が異なるが、新型コロナで晴れ舞台が続々と失われる現状に「特に中3や高3の選手は区切りの大会がなくなりつらいと思う」と胸を痛める。ただ「これで終わったわけではないし、ずっと悔やんでいても仕方ない。未来の大会など新たな目標に向かって取り組んでもらえたら」と願う。
 京友禅の染色作家として働きながら40代の頃に一度、競技復帰を果たし全日本マスターズ選手権で大会記録を残した福田さんは、日々の練習の積み重ねの重要性を強調する。「練習環境が限られる中で筋肉を維持するのは大変だと思うが、何らかのトレーニングを毎日続けることは必要。腐ることなく何事も前進あるのみで、次につなげていってほしい」

愛媛新聞社

最終更新:5/13(水) 10:43
愛媛新聞ONLINE

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