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プロ野球人生は“外野に飛ばない打撃”でスタート…守備と走塁磨いて生き残った男 怖くても星野監督の隣に

5/22(金) 12:12配信

中日スポーツ

[野球ファンに届ける 本紙評論家リレーコラム]大西崇之

 今回は私が入団した1995年の話をしたい。94年のドラフト6位で指名された。中日では最下位。全体では63選手が指名、入団したが、私は背番号と同じ58番目だった。都市対抗では3試合で12打数8安打、3本塁打。大舞台で結果を残せたのは大きな自信にはなったが、当時の社会人野球は金属バット。プロで木製に対応できるかが一番の不安だった。

 6人の新人の中で、私だけが1年目からアリゾナでの1軍キャンプメンバーに選ばれた。しかし、私の不安は早々と現実になってしまう。木製バットを使いこなせず、打撃投手の球さえまともに飛ばせないありさまだった。1年目の1軍戦出場はゼロ。自信など消えうせ、24歳だっただけに周囲からの「誰が取ってきたんだ」「ひどい」という声も嫌でも耳に入ってきた。

 転機はそのオフ。大阪に帰省する新幹線で中日スポーツを読んでいると、ある記事に目が留まった。就任直後の星野仙一監督が「スペシャリストを育成する」とコメントしていたのだ。ひょっとして、自分は守備と足なら勝負できるのではないか。少しだが、光が見えた気になった。

 2年目からは打撃そっちのけ。守備と走塁を必死に磨いた。打撃練習は私にとって守備の練習。仲間の打球を最後の1球まで追っていた。「これで生きていく」。その思いだけだった。5月26日に代走で初出場。ベンチにいるときも、大声を出し続けていた記憶がある。星野監督は怖かったが、いつも隣に座るよう心掛けた。時折かけてもらう言葉が勉強になったし、島野育夫ヘッドコーチには途中から出場する心構えを教わった。

 この96年は出場48試合。わずか3安打だったが、不思議なものでそのうちの1本は本塁打だった。何よりもシーズン終了まで1軍にしがみつけたことがうれしかった。フェンスどころか、内野を越すかどうかの打撃からスタートした私のプロ野球人生。あのアリゾナキャンプを思い返すと、どんなに非力な選手でも、諦めずにやれば生きていく道は必ず見つかる。最後に、大先輩の小松辰雄さんから言われた言葉を紹介する。

 「オレが見てきた選手で、一番伸びたのはおまえだ」。これに勝る褒め言葉はないと思っている。

最終更新:5/22(金) 12:12
中日スポーツ

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