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築地から看板の灯が消えた日 吉野家1号店での「汗だく」は今も誇り

5/23(土) 18:34配信

スポーツ報知

 「誠に勝手ながら、5月23日15:00までの営業をもちまして、閉店させていただくこととなりました」―。牛丼チェーン吉野家が公式サイトで築地東店(東京都中央区)の閉店を告げた。「跳ね上げ橋」として有名な勝鬨(かちどき)橋の近くにあった店舗。学生時代に吉野家後楽園店(白山通り沿いにあったが、現在は閉店)でアルバイトしていた筆者は、何度か「応援」(臨時で派遣されること)で、この店で仕事をしたことがある。就職してからも、先輩から頼まれて、この店に弁当を買いに行っただけに、さみしく感じる。

 2018年、築地市場にあった築地1号店が豊洲に移転したことを思い出した。築地1号店にも「応援」で働いたことがあり、30年以上たった今でも、その時の光景は忘れない。

 公式サイトによると、吉野家は1899年(明治32年)、東京・日本橋にあった魚市場に個人商店として誕生し、1926年(大正15年)に3年前の関東大震災により魚市場が築地に移転したのに伴い、同地に移った。築地1号店で「一度は仕事をしてみたい」と思っていた既存店のバイトは結構多かったはずで、筆者もその一人。なかなか“お呼び”がかからなかったが、1984年暮れにチャンスが来た。

 当時、後楽園店は全国でも売り上げが3~5位の繁盛店だったが、築地1号店には市場で働く人がお客さんで来るので、先輩いわく「色んな味を求めてくるからメニューが細かくて大変」。今では当たり前の「つゆだく」「ネギヌキ」「頭の大盛り」(ご飯は並で、肉だけ大盛り)などはもちろん、牛肉脂身多めの「とろだく」(脂身少なめは「とろぬき」)「ツメシロ」(ご飯を冷ます)「ニクシタ」(肉の上にご飯を乗せる)とか既存店では対応できない注文もあったというから、おいそれと「応援」には行けなかった。近隣店や新橋、有楽町店と全国1、2位の店舗からの応援が多かった。だが、その年はどこの店からも人が出せず、こちらにおはちが回ってきた。

 23時から翌朝8時までの勤務。「築地店で仕事をする」と思うと緊張し、刺すような夜風もあいまって、体を震わせながら店に向かった。暗くて細い道を入り、明かりのついた店の裏口に着いた時はうれしかった。1時間に300人前以上の牛丼を作ったことや、バイトながら社内報にも取り上げられたことなども、この店では通用しない。多様な注文で「肉盛り」(ご飯に牛肉を盛りつけること)はもちろん、カウンターでの接客も慣れていないと、1分1秒を争うお客さんを怒らせてしまうからだ。客席が空かなくても、椅子の後ろに立って食べられるよう、壁には「箸立て」が設置されており、背中越しに箸を取って立ったまま食べていたお客さんも。筆者の主な仕事は裏口付近で鍋や釜を磨くことだった。店内のけん騒を耳で聞きながら、必死に腕を動かした。指先はちぎれるほど冷たいのに、体は「汗だく」になった。

 寒さに体が慣れた頃、店内に呼ばれ、お新香の盛りつけなどの作業に。そして、客足が少し減った頃にカウンターに出させてもらった。一晩かけて少し“出世”。赤くむくんでいた両手が丼や湯飲みから熱をもらい、お客さんに「おい!」と催促されながらも、笑顔でカウンター内を走り回った。後日、再び朝8時から応援に。その時は「飯盛り」(丼にご飯をよそうこと)、そして「肉盛り」もさせてもらった。「つゆだく」「ネギダク」はあったが、残念ながら「とろ抜き」のオーダーはなかった。だが、お客さんからの文句は出なかった。ピークを過ぎた時間帯に30分ほどだったが、任されたことでやりがいを感じた。

 築地東店には深夜に応援に行き、その晩の「店長代行」を示す白線入りの青いキャップをかぶったこともある。「築地」で手にした「誇り」は、今も支えになっている。

(記者コラム・谷口 隆俊)

報知新聞社

最終更新:5/23(土) 19:00
スポーツ報知

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